令和という新時代を迎えたにもかかわらず、日本はいまだに昭和の残滓(ざんし)を引きずっている。戦後の人口ボーナス期に適正化された社会の仕組みを、高度経済成長やその後のバブル経済という成功体験が足かせとなって変えられずにきた。その代償として、現在、さまざまな問題に直面している。
- 東京一極集中および地方の弱体化。東京圏(東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県)が国全体のGDPおよび人口に占める割合はニューヨークの3倍超。パリ、ロンドンと比較しても高い。
- IT投資の低さや業務効率化の立ち遅れなどに起因する労働生産性の低さ。労働生産性はOECD平均の8割強、米国のわずか6割程度にとどまり、週49時間以上就労している長時間労働者の割合は2割を超える(米国16.4%、イギリス12.2%、フランス10.5%、ドイツ9.3%)。
- 先行き不透明な超高齢化社会への対応。介護分野の2019年の有効求人倍率は4.32(求職者1人に対して、4人分以上の求人。年平均。職業全体では1.53)※1とかなり高い水準である。介護人材は増えてはいるものの要介護高齢者の増加スピードには追い付かず、この趨勢では2025年度には全国で40万人近く介護人材が不足すると予測されている※2。
挙げればきりがないが、今回のコロナ禍は、こうした変わらない日本社会の問題点をあぶり出すことになった。ビフォーコロナ社会が追い求めていたものは、ひと言でいえば、経済合理性の追求である。当初、夜11時までの営業だったコンビニエンスストアは24時間営業が当たり前となり、交通網の発達は都心への人口集中を生んだ。消費者は価格の経済合理性(=安さ)を求め、その結果、狭いスペースに人を集めて薄利多売で収益を上げるビジネススタイルが主流となった。
しかし、新型コロナウイルス感染拡大は、これまで軽視してきた持続性の確保(安心とレジリエンスの確保)の重要性を顕在化させた。冗長性を嫌って削減されてきた行政や民間のリソースは、コロナ禍によってさらにひっ迫し、とりわけ医療機関や介護施設の現場では担い手不足に加え、いまだに文字通り「人手」が頼りの「密」な環境ゆえ、感染の危機にさらされ疲弊している。また、多くの分野で従来の目先の経済性を追求したビジネスモデルが継続困難となっていることから、収入に関する不安を持つ人も多い。
それに伴い、「安全安心への希求」「さまざまな業務システムや働き方の効率化・変革」などを求める新たな潮流が生まれようとしている。今回のコロナ禍は国難といえるが、それによってもたらされる潮流がどのようなものであるかを読み解き生かすことで、よりよい方向に社会を変えていく契機にすべきではないか。
もちろん社会を変革することは容易ではない。わが国の歴史を振り返ってみたとき、すぐに思いつく社会の大変化としては明治維新と敗戦がある。変化よりも安定を好む日本という国では何かが決定的に破壊されたときくらいしか、時計の針は進まないことを裏付ける。
ただし、「世代交代の可能性」が一つのチャンスであるとも思う。デジタルネイティブ世代と重なる「ミレニアル世代」(2000年代に成人した層)とそれ以降の世代を合わせた人数が労働力人口の半数を超え始める2025年以降は、「オンラインとオフライン」「リアルとバーチャル」のハイブリッドが、ニューノーマル(新常態)となる社会をごく自然に受け入れるに違いない。
わが国が抱える社会課題はいくつもあるが、ここで着目したいのは冒頭に述べた「東京一極集中」である。
一都市圏への集中の仕方は世界を見渡しても日本が際立っているが、「コロナ」はヒト・モノ・カネが一カ所に集中する東京の脆弱(ぜいじゃく)性を浮き彫りにした。元をただせば、江戸幕府の成立以降、大政奉還までの数百年の歴史がこのような国土構造を創り出しているものの、明治期に廃藩置県、戦後には政治・経済機能の東京への集中がより一層進み、地域の均衡ある発展と地域独自の文化醸成はより一層、阻害されることとなった。
ことコロナに限ってみれば、いずれワクチンや予防薬が開発され、また、弱毒化が進み、毎年恒例のインフルエンザ予防接種のように、感染予防を行うようになるかもしれない。しかし、近い将来また新たな病原体によるパンデミックは起こりうる。
その未来に起こりうる危機を先取りし、国土の均衡ある成熟へとかじを切り替える必要がある。新たな病原体が発生するたびに緊急事態宣言を出す必要のない「フェーズフリー」(平常時と異常時のいずれも変わらず社会・経済活動を維持できる)社会の実現である。