ヘルスケアの新時代を拓く

 
Point
医療・介護費用の削減・適正化には個別化予防・医療のアプローチが有効。
個別化予防・医療は、ID活用を通じて社会的・経済的効果の創出に寄与。
データ利活用のインセンティブ強化、他分野からの参入促進などが成功の鍵。

1.医療・介護分野における新たな取り組みの必要性

 少子高齢化、人口減少に伴い、2025年の医療・介護費用は、現在の2倍以上の100兆円に迫る勢いにある。今年6月に閣議決定された「日本再興戦略2016」では「世界最先端の健康立国」が施策目標の一つとして掲げられ、健康寿命延伸、メタボ人口減少、医薬品の審査期間短縮などがKP(I 重要業績評価指標)として設定された。この社会課題の解決に向けて、産・官・学による取り組みが進展しつつある。具体的には、PHR(パーソナルヘルスレコード)の構築など、省庁・自治体による医療・健康分野のデータ活用や実証事業、大学・研究機関によるゲノム解析やバイオバンク事業、健康保険組合によるデータヘルス計画策定、民間企業によるウェアラブル端末の新商品開発などが挙げられる。

 しかし、限られた公的財源への依存度が高く、地域で閉じた取り組みが多いため、全国展開に至るような成功事例は少なく、医療・介護費用の削減・適正化という目標に対して十分成果を出していない。また、国民医療費約40兆円のうち2割程度を薬剤費が占めている。疾病別の薬剤有効率は、「がん」約25%、「アルツハイマー」約30%、「鎮痛」約80%といわれ、必ずしも有効な治療・投薬が実施されているわけではない。

 健康・医療・介護分野において、データ活用はサービスや事業の基盤となるが、民間事業者、保険者、自治体、医療機関などで十分に情報が共有されておらず、個人のライフステージや健康状態の変化に対して、必要なデータや情報が引き継がれないという問題が発生しているのが現状である。こうした問題の打開策の一つとして期待されるのが、個人属性に対応したきめ細かい予防・医療対策である「個別化予防・医療」というアプローチである。

2.個別化対応への期待

(1)個別化予防による医療・介護費用の削減

 「予防」は、一般に三つの段階で整理される。「1次予防」は健常者に対して病気の発生を防ぐための予防措置、「2次予防」は早期発見・早期治療を通じて重症化を抑える措置、「3次予防」は病気が進行した後の後遺症治療・再発防止・リハビリ・社会復帰である。このうち、最も重要な対策は「1次予防」にある。わが国では、学校、企業、自治体などで必ず健康診断が実施されており、国際的に見ても充実した取り組みとして評価されている。では、なぜその取り組みが医療・介護費用の削減に寄与しないのか。健康診断の受診率、検査精度、検査結果の活用方法などに問題があることに加え、ある一時点の計測だけで健康状態を評価している点、日頃のライフスタイルに合った検査・指導・治療ができていない点などが指摘される。

 こうした課題への対応として有効なのが「0次予防(=個別化予防)」というアプローチである。年に1度の健康診断に加え、遺伝的体質の把握、体質に合わせた生活習慣の改善と記録、記録内容を踏まえた予防対策の実施が、中長期的な医療・介護費用の削減を可能にする。これまでは技術的な障壁があったが、ゲノム解析技術やウェアラブル装置の技術革新によって、この0次予防が実現されつつある。例えば、健康診断の検査結果と遺伝体質やライフログデータを使うことによって、将来の疾病発生を予測・予見し、疾病への先制的な対応が可能となってきた。

 治療が困難な疾病として挙げられる認知症の患者数は、わが国では2025年に730万人(厚生労働省資料)、全世界では2030年に6,750万人、2050年には1億1,540万人(WHO推計値)になると予測される。現在開発されている認知症の薬は、進行を遅らせる効果しかなく、完治させるものではない。こうした治療が困難で患者数が増大する疾病には、特に「先制的な対応」が有効な手段となり得る。

図1 個別化予防・医療の概念

(2)ID活用による予防と医療の一体化

 これまでの医療は、診療情報(問診、検査結果など)に基づいて病名を確定し、病名に 応じた標準的な治療や投薬を提供するのが一般的であり、患者の遺伝的体質などは考慮されないことが多い。そのため、治療や投薬の効果は限定的な場合が多く、副作用も生じ得る。これに対して、個別化医療は、個人の遺伝子情報や健康状態、生活環境などから、最適な治療法を選択し、治療・投薬の効果を最大限に高める方法である。現在、最も先行しているのは薬剤の分野で、遺伝子に適合した医薬品の開発(ゲノム創薬)によって、個別化医療による治療・投薬の効果は高まりつつある。

 しかし、健康・医療・介護の全てに関わる社会的なコスト削減のためには、個別化予防(検査など)と個別化医療(治療・投薬など)とが一体化されることが不可欠である。これら二つを結び付けるために必要なものが、個人別のID管理である(図1)。これにより診療・介護情報の共有・相互運用、健康保険の切り替え時のデータ連携・移行が容易になり、個人のライフステージを通じた健康管理が可能となる。さらに異なる医療機関における重複検査・投薬も回避される。なお、地域医療連携用ID(仮称。以下、医療ID)導入については、2018年度の試験運用、2020年度の本格運用を目指して、2017年度からシステム開発が予定されている*1

(3)社会的・経済的効果の可能性

 個別化対応は、患者(国民)に対して健康寿命の延伸、副作用リスクの減少、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上などのメリットを提供するとともに、医療機関・医師に対しては、適切かつ効率的な治療方法の選択を手助けし、試行錯誤による手間や医療過誤などのリスク軽減にも寄与する。また、国に対しては、社会コスト削減や健康寿命延伸による労働生産性の向上といった社会的な効果をもたらすとともに、医薬品・医療機器の製品化プロセスの効率化(コスト削減、期間短縮、成功確率向上など)、革新的な医薬品・医療機器の研究開発の促進、さらには、他分野の産業への波及効果といった経済活性化への貢献も期待される。

3.個別化予防・医療の実現と持続可能な仕組みづくり

(1)データ利活用の普及促進に向けたインセンティブ付与

 ヒトゲノムが完全解読された2003年以降、遺伝子解析速度は飛躍的に向上し、従来の100~1,000倍の速度で配列を読む装置も開発されている。個別化予防・医療の実現に向けた取り組みは、解析技術などの開発からID管理やデータ活用に移行しつつあり、データ更新の仕組みや体制づくりが重要な鍵を握る。

 医療・健康情報の電子化による効率的・効果的な医療に取り組んでいる先進事例として、エストニアの「e-Health」がある。エストニアでは、2008年に国内の全医療機関の診断・検診結果が、2010年には処方箋が電子化された。その結果、医師は担当患者の既往歴や過去の診断・投薬履歴の追跡が可能となり、患者は自身の診断・検診結果が閲覧できるとともに、IDカードの提示のみで薬の入手が可能となった。エストニアの仕組みが有効に稼働しているのは、患者、医療従事者の双方がe-Healthの利便性を認識・理解しており、関係者が主体的に必要なデータを電子的に登録している点にある。

 わが国における個別化予防・医療の実現に向けては、同一のデータ利活用の仕組みを全国規模で普及促進する必要がある。そのためには、患者や生活者、医療従事者などの関係者が、積極的にデータ提供・更新に取り組めるように、各立場に応じたインセンティブ(保険料負担の減免、診療報酬上の加算など)の付与について検討する必要がある。

(2)生活関連産業からの参入促進

 e-Healthは、もともとは確定申告の電子版、電子投票システムといった公的サービスが基礎となっており、医療分野以外でも、運転免許証やEU域内でのパスポート、ネットバンキングや店舗の会員証としても利用可能など、さまざまな生活関連サービスと結びついている。

 個別化予防・医療を持続的かつ全国的な仕組みとしていくためには、医療IDの活用範囲を狭い意味での予防・医療に限定するのではなく、関連産業における新製品・新サービスの開発が可能となるよう、より広く設定し、多様な生活関連産業・事業者が容易に参入できるようにしておくことが重要である。医療IDを活用した新製品・新サービスとしては、例えば、個人別・属性別のデータと連動した健康食品や化粧品、遺伝子情報・ライフログと連動した保険商品開発や保健・生活指導(現物給付サービス)などが考えられる(図2)。

(3)法規制などの課題解決

 医療IDをより広く活用し、生活関連産業からの参入を促進していくためには、医療・介護分野で想定されている法的課題とは別の視点からの検討が必要となる。医療ID、個人情報保護法の改定(匿名化データ利用の制限緩和)、NDB(ナショナルデータベース)の構築・民間開放などにおいて、課題解決に向けた道は徐々に開きつつある。これを追い風にして、遺伝子情報に基づく商品・サービスに関連した訴訟対応、差別や人権問題、生命倫理上の問題など、より広範な視点から省庁横断的に制度の見直し・制定に取り組むことが望まれる。

図2 個別化予防・医療への参入が期待される産業の例

*1 医療IDの動向についてはトピックス2を参照


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