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ゲノム医療 第1回
遺伝子とデータを使って、病気を予防・治療する社会

遺伝子治療が生む新しいヒト

経営イノベーション本部 竹村 毬乃 2020.02.26

遺伝子治療とは、患者の遺伝子を編集して、細胞の遺伝子発現を強めたり細胞に新たな機能をもたせたりすることで、患者の遺伝子疾患を根本的に治癒する医療です。昨今では遺伝子解析のコストが低減してきたことで、遺伝子に起因する疾患メカニズムの解明や新しい治療法の開発が活発になってきています。医療が大きく変わろうとしている一方で、遺伝子治療技術の進展によって引き起こされる倫理問題に関する議論の必要性も叫ばれるようになりました。このような動向を捉えるため、当社では希少疾患、がん、認知症分野の先端研究開発動向を調査しました。その一端を3回シリーズで紹介します。

遺伝子治療現状と問題点

2019年、日本では遺伝子治療における新時代の幕開けを迎えました。薬事規制当局であるPMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)が「キムリア」と「コラテジェン」という2つの遺伝子治療薬を承認したのです。キムリアは再発または難治性の特定の白血病の治療に、コラテジェンは慢性動脈閉塞症による重症下肢虚血の治療に用いられます。治療を必要とする患者に医療保険が適用されて提供されることとなり、難病患者に光明を与えています。喜ばしい遺伝子治療薬ですが、懸念はないのでしょうか。

遺伝子治療の現状についてみてみましょう。
現在認められている遺伝子治療、前述のキムリアやコラテジェンによる治療は「体細胞」に行うものです。細胞は大別すると体細胞と生殖細胞に分かれ、体細胞は私たちの身体を構成する細胞で、一世代限りで死んでしまいます。一方、生殖細胞は、受精卵から新しい個体を作り、次の世代へ受け継がれる細胞です。

生殖細胞への遺伝子治療は現在認められていません。もし生殖細胞つまり受精卵に遺伝子治療を行えるようになったとしたらどうなるでしょうか。まずは先天性遺伝子疾患が治療できるようになるでしょう。両親の遺伝子検査の結果、もしその変異が明らかになれば、体外受精で作成した受精卵に対して遺伝子治療を行うことで、母親はその疾患をもたない子を産むことができるのです。

また、治療の枠組みを超えて遺伝子を操作することによって、個人の能力を高めることができるかもしれません。例えば、酸素運搬に関わるEPO遺伝子の発現を上げるようにすれば筋持久力が増すかもしれませんし、長期記憶形成に関わるCREB遺伝子を神経細胞で多く発現するようにすれば記憶力が良くなるかもしれません(このような健康の回復と維持という目的を超えて、能力や性質の改善を目指して人間の心身に医学的に介入することを「エンハンスメント」といいます)。

受精卵に遺伝子治療を施して出産させることは、現時点では禁じられています。技術が進歩してきたとはいえ、安全性と有効性が証明されたわけではないからです。また、遺伝子治療を施した受精卵から産まれた子が、成長してから何らかの異常が見つかった場合への対応や、もし将来的に受精卵への遺伝子治療が普及した時の、差別や優生思想への懸念など、倫理問題に関する議論が十分なされていないこともあります。特に後世への影響を考えることは重要です。一度受精卵への遺伝子編集を行うと、編集した遺伝子は後の世代へ半永久的に受け継がれていきます。慎重に議論し、研究を進めなければいけません。

ゲノム編集配列の遺伝

出所:三菱総合研究所

技術先行で進む研究と遅れる倫理議論

研究目的に限って受精卵への遺伝子治療を認めるかどうかは、現在議論されている最中です。ゲノム編集の精度は日々向上しており、2019年12月には東京大学 真下教授らのチームがCRISPR/Cas3というゲノム編集技術の開発に成功したと発表しました。標的以外の場所を編集してしまう確率が、既存の代表的なゲノム編集ツールであるCRISPR/Cas9と同等、もしくはより低いことを証明したもので、今後の活用が期待されます。

ゲノム編集自体は特段難しい操作や大掛かりな機器を必要としません。例えば大学の実験室や不妊治療を行っているクリニックであれば実施できる技術となっています。技術の進歩が先行する一方で倫理的な問題に関する議論や規制は鈍いという状況の中、2018年11月、中国・南方科技大学の賀建奎副教授は、受精卵に遺伝子治療を行って双子を出産させたことを発表し世界に衝撃を与えました。倫理委員会の書類に虚偽の記載をしていたため、大学側は事態を把握していませんでした。受精卵を母体に戻す前に十分な検証がされていなかったため、標的遺伝子が適切にゲノム編集されたかも不明で、別の変異が生じている可能性も否定できません。さらに前述のとおり、遺伝子治療は特段難しい操作などを必要としないので、もしかしたら世界のどこかで中国の事件の2例目、3例目が起きているかもしれないのです。

中国でのゲノム編集による双子出産が突きつけたもの

ただ一つ言えることは、この世に少なくとも2人、受精卵時点で遺伝子治療を受けた人がいるということです。2人とも女児と発表されていますが、彼女らが健康に育つことを祈るしかありません。そして彼女らの追跡研究で問題が見つからなければ幸いですが、もし彼女らの身体に遺伝子治療が原因とみられるトラブルが起これば、遺伝子治療そのものにブレーキがかかる可能性があります。

中国での事件を受けて、ゲノム編集を開発した研究者からは「生殖細胞や受精卵へのゲノム編集は当面実施すべきでない」という声明が出されました。科学者が最も懸念しているのは、拙速に受精卵へのゲノム編集を進めることで、患者に思わぬ被害をもたらし、科学者に対する市民の信頼が失墜することです。
海外では法規制を行ったり、研究費を拠出しないことで研究をけん制したりする国がある一方で、日本では規制整備が遅れています。法律をつくる、すなわち罰則を設けると、遺伝子治療に関する研究や臨床応用に歯止めがかかってしまうことを危惧する声もあります。しかしながら、国として何らかの態度を示さない限り、受精卵への遺伝子治療を容認していると取られかねません。中国で先例が出たことと、技術的には容易に実施できる状況を重く見て、規制整備を急ぐべきだと考えます。

遺伝子治療は今までの医薬品にはなかった新しい問題を突きつけています。将来的に遺伝子治療技術の安全性が確立される可能性があるので、治療にとどまらず健康強化やエンハンスメントを目的とした活用の是非についても国民的議論が必要です。当社は未来共創に取り組む企業として、遺伝子治療の動向に関する分析を進め、技術と社会の間に生じる問題や論点を研究・発信していきたいと思います。

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