ヒトを超える賢さをもつAIを実現し、そのAIがヒトに寄り添う社会
脳がインスパイアする汎用AI開発
脳を参考とした汎用AI開発方式のメリット
AIの研究が始まった当初から、人間の脳の仕組みを参考にすることによって、汎用的な知能をもつAI(汎用AI)を開発できるのではないかという発想がありました。この発想による汎用AIの研究開発は、「脳や神経など人間に関連のある研究分野の知見を活用できる」「技術統合の足場として多くの人の合意を得やすい」「人間と親和性の高い汎用AIが実現しやすい」などのメリットがあり、研究の進展に期待が寄せられています。
近年、神経科学や機械学習分野の研究に進展があり、汎用AIの開発にもそれらの研究の知見を活用できるようになりました。本コラムでは知見の活用によって近年研究の進展が見られた2つの方式、すなわちハードウエア的な発想で脳全体を分子/原子レベルからエミュレーション(模倣)する「全脳エミュレーション方式(WBE;Whole Brain Emulation)」と、ソフトウエア的な発想で脳の各器官を計算モデルとして解釈・統合する「全脳アーキテクチャ方式(WBA;Whole Brain Architecture)」をそれぞれ紹介します(表1)。
脳を参考とした代表的な汎用AI開発方式
方式 |
全脳 エミュレーション (WBE) |
全脳 アーキテクチャ (WBA) |
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概要 |
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実装 形態 |
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利点 |
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課題 |
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現状 ・ 目標 年次 |
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出所:ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運』(日本経済新聞出版社、2017年)、全脳アーキテクチャ・イニシアティブ(WBAI)勉強会資料などより三菱総合研究所作成
全脳エミュレーション方式:脳全体を分子/原子レベルからエミュレーション(模倣)
全脳エミュレーション方式の実現ステップは、①スキャニング⇒②画像翻訳⇒③シミュレーション⇒④身体化 の4段階で構成されます(図1)。
全脳エミュレーション方式の実現ステップ
出所:三菱総合研究所編著『フロネシス22号 13番目の人類』(ダイヤモンド社、2020年)
(ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運』(日本経済新聞出版社、2017年)、マレー・シャナハン『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』(NTT出版、2016年)より作成)
全能エミュレーションは、実現ステップ1で示されているように、1ミクロン未満という非常に高い空間分解能でスキャニングを行います。エミュレーション(模倣)する対象の拡大を積み重ね、最終的に人間の脳全体をエミュレーションするに至るまでには長い時間がかかります。現時点で、すべての神経細胞とシナプス(神経細胞同士の結合部位)が解明されている生物は単純な線虫のみですが、それは線虫の神経細胞とシナプスの数が人間に比べて桁違いに少ないからです ※1。また、脳の画像データを詳細にスキャニングできる顕微鏡がまだ開発できていないなどの技術的課題もあります※2 。
オックスフォード大学のニック・ボストロム教授が示したロードマップでは、技術的な要件がそろうのは今世紀の中頃と予想されています ※3。現状では全脳エミュレーション方式の研究・開発は、多くのケースで脳疾患研究などをメインとしたプロジェクトにおける付随的な研究・開発という位置付けで取り組まれています。
全脳アーキテクチャ方式:脳の各器官を計算モデルとして解釈・統合
全脳アーキテクチャ方式の実現ステップは、①脳の各器官の計算モデルを「機械学習モジュール」として開発⇒②各モジュールを統合した「認知アーキテクチャ」を構築 の2段階から構成されます(図2)。例えば、小脳は「教師あり学習」の、大脳基底核は「強化学習」の、大脳新皮質は「教師なし学習」の各機械学習モジュールが対応すると考えられます。一方、モジュールの統合方法を別途検討する必要があるなど、全脳アーキテクチャ方式特有の課題もあります。
全脳アーキテクチャ方式の実現ステップ
出所:三菱総合研究所編著『フロネシス22号 13番目の人類』(ダイヤモンド社、2020年)
(WBAI「全脳アーキテクチャとは」(https://wba-initiative.org/wba/)より作成))
研究開発を担う組織によって、全脳アーキテクチャ方式の開発方針は異なります。モデル化の対象を、人間などの高等生物に特徴的な大脳新皮質に限定する組織もある一方、日本のNPOである全脳アーキテクチャイニシアティブ(WBAI)※4 のように、大脳新皮質の周辺領域まで含めて対象としている組織もあります。
現状では、多くの組織は、2020~30年頃までを活動期間のめどとして、要素技術の研究・開発や開発方法論の確立に注力しています ※5。開発の過程で得られた機械学習技術を企業活動に活用している例もあります。
関連分野からの参入が汎用AIの開発を加速させる
「全脳エミュレーション方式」と「全脳アーキテクチャ方式」の両方式ともに技術的な課題が多く、最終的に汎用AIが実現するまでには長い時間がかかるでしょう。しかし、機械学習におけるディープラーニングのように、現在予見されていない技術的なブレイクスルーが起これば、研究・開発が加速する可能性があります。
これまで見てきたように、機械学習の技術的進展だけでなく、人間に関連のあるさまざまな研究分野の知見の拡大が、両方式の研究・開発を進める原動力となります。例えば、近年の神経科学分野における研究の進展 ※6は、両方式による研究・開発を大きく後押ししました。脳内の各領域がどのように連携・機能しているか、についても徐々に研究に進展が見られ、「認知アーキテクチャ」を構築するための有用な知見を提供しつつあります。
人間の脳は、宇宙ととともに「人類最後のフロンティア」といわれています。知的好奇心の対象としても、研究対象としても、非常に興味深いテーマです。
汎用AIを実現するためには、人間が自然に身につける「常識」の概念がAIに備わる必要があります。果たして人間の常識は、この世界に関する十分な知識と概念があればAIにも自然に生じるのでしょうか。あるいは技術的なブレイクスルーを必要として実現するのでしょうか。答えを得るにはさまざまな研究分野の知見を集め、総合的に分析していくことが必要です。汎用AIの研究・開発を通じて、例えば「知性」の理解も進むでしょう。また、「意識」や「感情」などの精神的な働きをどのように実現するのか(すべきなのか)など、興味深い議論の種は尽きません。
現状では、「全脳エミュレーション方式」と「全脳アーキテクチャ方式」の両方式ともに開発スピードの停滞が課題です。関連分野の知見を活用しやすいこと、また、人間の脳が研究対象として非常に興味深いものであることから、この分野への人材と資金の参入が増え、開発スピードが加速する相乗効果に期待します。
- ※1:線虫は302個の神経細胞と6,393個のシナプスからなるのに対して、人間の脳には約1,000億個の神経細胞と100兆個以上のシナプスがあるともいわれている。
- ※2:解像度のレベル向上だけでなく、画像データ取得に時間がかかり過ぎないよう、十分なスループットも必要となる。例えば、現在使用可能な原子レベルの分解能を有する走査型トンネル顕微鏡は、全脳エミュレーション方式においては画像データ取得に時間がかかりすぎる。
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※3:Whole Brain Emulation A Roadmap
https://www.fhi.ox.ac.uk/brain-emulation-roadmap-report.pdf
(閲覧日:2020年5月11日) -
※4:全脳アーキテクチャ・イニシアティブ(Whole Brain Architecture Initiative)
https://wba-initiative.org/
(閲覧日:2020年5月11日) -
※5:A Survey of Artificial General Intelligence Projects for Ethics, Risk, and Policy, Global Catastrophic Risk Institute Working Paper 17-1, Seth Baum, Global Catastrophic Risk Institute, November 12, 2017
https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3070741
(閲覧日:2020年5月11日) - ※6:コネクトーム(神経系内の接続状態を表した神経回路地図)に関する知見や、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)の活用など。