元プロ野球選手 鎌田祐哉氏 セカンドキャリアインタビュー

「これがご縁だ」と感じ未知の世界に飛び込んだ第二の人生。
最多勝利投手に輝いた年にクビの宣告、切り替え力と自立の生き方。

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2020.7.13
元プロ野球選手の鎌田祐哉氏は、幼い頃に両親から受けた、「自立」を高める教育に感謝している。
12年間にわたる現役プロ野球選手を引退後、不動産会社という未知の世界を選んで8年目。プロ野球や不動産会社での多様な経験を、将来スポーツ界に還元できる日を目指してコツコツと営業マンを継続している。「これからも家族に誇れる自分でありたい」——。氏の思いは、このすてきな言葉に込められている。

鎌田家の教育方針「自立」をベースに生きた野球時代

—— アマチュア時代の主な経歴を教えてください。

鎌田 小学校・中学校では、学校の野球部に所属しました。高校受験で第一志望の高校に不合格となり、一時は野球を続けることを諦めようと思いましたが、その後秋田経済法科大学附属高校に進学が決まり、気持ちを切り替えて甲子園を狙える野球部に期待をもち入部しました。そして、3年の時に投手として念願の夏の甲子園大会に出場することができました。ただエースではなく2番手投手で背番号は「10」。予選の秋田県大会では2試合で投げましたが、甲子園で登板機会はなく、チームは初戦敗退でした。

—— その後は大学進学の道を選ばれたのですね。

鎌田 幸い高校での学力評定が5点満点で4点台だったのと、甲子園大会出場という部活動の競技実績を活かし、「早稲田大学社会科学部 全国自己推薦入試」に挑戦することを決めました。高校の先生に小論文や面接の指導をしていただいたこともあり、約4倍の難関を突破し合格することができました。

—— 早稲田大学社会科学部の全国自己推薦入試は、勉学にも取り組んできた人を対象としたものですね。大学では野球以外の道を選択することも可能だったと思いますが、野球を続けられ、大学生活はどうでしたか。

鎌田 大学では1年生から公式戦で投げる機会をいただきました。憧れの神宮球場のマウンドで投げることができたのですが、2年間で1勝11敗と勝利に貢献できず申し訳ない気持ちでいっぱいでした。3年生になった時は、チーム全体の戦力が整ったこともあって、春季リーグ戦で優勝しました。個人としても、六大学ベストナインや日米大学野球大会の代表選手に選ばれました。この頃から野球に自信がついてきたという感じです。

—— シドニー五輪の日本代表の候補者にも選出されました。

鎌田 オリンピックの野球日本代表というと、それまではアマチュア選手のみのチーム編成でしたが、このとき、初めてプロアマ混合になりました。プロ選手も選出される日本代表候補に選ばれたことはとても光栄でした。しかし、強化合宿に呼ばれたときは、春のリーグ戦での疲労がピークであり、将来的なことも考え辞退をする決断をせざるを得ませんでした。ここで無理をしなかったことで、その後の六大学野球で活躍を継続でき、大学4年間で通算13勝17敗(3年生からの2年間は12勝6敗)という成績で終えることができました。

—— 無理をせずにオリンピック日本代表を辞退するところは、良い意味で鎌田さんの無欲さがうかがえるような気がしました。3年生からは大活躍でしたので、その時点でプロも意識されたのではないでしょうか。
鎌田 やはり3年生で大学日本代表になった頃から、新聞などでも「プロ注目」と書かれるようになり、プロ入りを意識するようになりました。ドラフトでは、東京ヤクルトスワローズを逆指名させていただきました。

—— プロ入りも含め、自分の進路を選択する際には、ご両親とは相談されましたか。

鎌田 一切相談をせずに自分自身で決断をしました。実は、幼い時からやりたいことは自分自身で決めて、親には決めた後に報告をするというスタイルでした。親も、必要以上にどうするのかとは聞いてきませんでした。そして、自分自身が決めたことに反対することなく、その意志決定を尊重して応援してくれました。今、思うと、これが鎌田家の教育方針だったのかもしれませんね(笑)。
写真:鎌田氏提供(明治神宮野球場)
写真:鎌田氏提供(明治神宮野球場)
—— プロ入り後はいかがでしたか。

鎌田 2000年にドラフト2位で東京ヤクルトスワローズに入団し、2001年4月3日の巨人戦で初登板しました。そして、シーズン後半の9月26日の中日戦で初先発初勝利を挙げることができました。2003年は先発ローテーションに入ることができましたが、けがもあり、その後は振るわないシーズンが続きました。2010年途中に楽天イーグルスに移籍しましたが、2011年のシーズン最後に戦力外通告を受けました。長年、右肩腱板不全断裂という負傷で悩まされていました。ただ、かなり傷も癒えてきていましたので、まだやれるという気持ちはありました。
©東京ヤクルトスワローズ(東京ヤクルトスワローズ現役時代の鎌田氏)
©東京ヤクルトスワローズ(東京ヤクルトスワローズ現役時代の鎌田氏)
—— ヤクルトで9年半、楽天で1年半、合わせて11年にわたり日本プロ野球(NPB)に在籍し、楽天から戦力外宣告を受けた後は、台湾プロ野球(CPBL)の統一セブンイレブン・ライオンズに入団しています。この台湾行きのきっかけを教えていただけますか。

鎌田 楽天から戦力外を通告されたとき、この先、どうしようかと思いました。12球団合同トライアウト(入団テスト)を受けましたが、入団には至りませんでした。そんな折、台湾の統一セブンイレブン・ライオンズから「入団テストを受けてみないか」と声をかけていただいたのです。その結果、合格し、2012年のシーズンから台湾プロ野球と契約をすることができました。
—— 台湾プロ野球ではどうでしたか。

鎌田 環境が大きく変わりました。まず、言語が違うので、チームメイトとのコミュニケーションが大変でした。成績としては、自分自身の調子が良かったこともあり、オールスターに出場し、16勝7敗で最多勝利のタイトルも獲ることができました。結果を残すことができたのですが、シーズン終了後にチームから「来年の外国人枠はアメリカ人を獲るから」と言われ、解雇されてしまいました。このとき、台湾で活躍できて、野球に対しては「やりきった」という思いもありました。家族もいますし、早く次の道を探さなければと、気持ちを切り替えることができました。 

—— まだ現役選手を続けられそうな気もしますが、良い形で終われたことがセカンドキャリアの道に切り替えさせてくれたのでしょうか。現役時代に、引退後を見据えて何か取り組んだことはありましたか。

鎌田 特にありません。とは言っても、自分は、他の選手よりは引退後に備える「気持ち」はもっていたと思います。選手同士で食事するときなどに、セカンドキャリアの話題を出して笑われたことがあります。自分は生涯にわたって野球をするというイメージはもっておらず、引退後は野球とは別の道を歩むという「意識」はありました。
写真:鎌田氏提供(2012年台湾最多勝投手賞表彰トロフィー)
写真:鎌田氏提供(2012年台湾最多勝投手賞表彰トロフィー)
—— 具体的な準備はしてないものの、「意識」はあったということですが、それはどういうことでしょうか。

鎌田 プロ野球選手になる前の時代、子どもの頃にどんな環境で育ってきたのかの影響が大きいような気がします。例えば、子どもの頃に親から「野球だけ頑張れ。野球だけできれば良い。絶対にプロ野球選手になれ」と言われて野球だけの生活をしてきたのか。それとも、野球をするかどうかは自分の意志で決めて、いろいろなことを経験してきた中で野球もしてきたのか。自分は親に「野球をやれ」と言われたことがありませんでした。自分の意志で野球を始め、進路を決め、プロ選手の道を選びました。辞めるときも自分の意志でした。今、振り返ってみると、幼い頃から親が自立を促す教育をしてくれて、習い事や進路などを自分で決めさせるように導いてくれていました。だから、親には事後報告が多かったのかもしれません。その自分の意志決定を親は全力で応援してくれました。
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