—— アマチュア時代の主な経歴を教えてください。
鎌田 小学校・中学校では、学校の野球部に所属しました。高校受験で第一志望の高校に不合格となり、一時は野球を続けることを諦めようと思いましたが、その後秋田経済法科大学附属高校に進学が決まり、気持ちを切り替えて甲子園を狙える野球部に期待をもち入部しました。そして、3年の時に投手として念願の夏の甲子園大会に出場することができました。ただエースではなく2番手投手で背番号は「10」。予選の秋田県大会では2試合で投げましたが、甲子園で登板機会はなく、チームは初戦敗退でした。
—— その後は大学進学の道を選ばれたのですね。
鎌田 幸い高校での学力評定が5点満点で4点台だったのと、甲子園大会出場という部活動の競技実績を活かし、「早稲田大学社会科学部 全国自己推薦入試」に挑戦することを決めました。高校の先生に小論文や面接の指導をしていただいたこともあり、約4倍の難関を突破し合格することができました。
—— 早稲田大学社会科学部の全国自己推薦入試は、勉学にも取り組んできた人を対象としたものですね。大学では野球以外の道を選択することも可能だったと思いますが、野球を続けられ、大学生活はどうでしたか。
鎌田 大学では1年生から公式戦で投げる機会をいただきました。憧れの神宮球場のマウンドで投げることができたのですが、2年間で1勝11敗と勝利に貢献できず申し訳ない気持ちでいっぱいでした。3年生になった時は、チーム全体の戦力が整ったこともあって、春季リーグ戦で優勝しました。個人としても、六大学ベストナインや日米大学野球大会の代表選手に選ばれました。この頃から野球に自信がついてきたという感じです。
—— シドニー五輪の日本代表の候補者にも選出されました。
鎌田 オリンピックの野球日本代表というと、それまではアマチュア選手のみのチーム編成でしたが、このとき、初めてプロアマ混合になりました。プロ選手も選出される日本代表候補に選ばれたことはとても光栄でした。しかし、強化合宿に呼ばれたときは、春のリーグ戦での疲労がピークであり、将来的なことも考え辞退をする決断をせざるを得ませんでした。ここで無理をしなかったことで、その後の六大学野球で活躍を継続でき、大学4年間で通算13勝17敗(3年生からの2年間は12勝6敗)という成績で終えることができました。
—— 無理をせずにオリンピック日本代表を辞退するところは、良い意味で鎌田さんの無欲さがうかがえるような気がしました。3年生からは大活躍でしたので、その時点でプロも意識されたのではないでしょうか。