元フィギュアスケート選手 加藤え美子氏 セカンドキャリアインタビュー

氷上から地上の表現者へ。過食症を乗り越えて歩む役者の道。

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2021.3.11
フィギュアスケートは氷上の表現芸術であり、競技生活では人の目のジャッジに翻弄(ほんろう)され続ける。そのプレッシャーから神経性過食症を患った加藤え美子(かとう・えみこ)氏は、自分を客観視して認めることでそれを克服。完治後に、セカンドキャリアとして演技者という地上の表現者の道へ。過食症だったからこそ気付けた自分の目とさまざまな経験値が、武器に。ナイーブな話を赤裸々に語れるまでに回復し、それを強みと思えるようになった。

過食症を隠し続けたフィギュア人生

—— まずフィギュアスケートを始めたきっかけから教えてください。

加藤 私は名古屋出身でスケートが盛んな町で生まれました。近所にスケートリンクがあり、毎年冬休みにそこで開かれるスケート教室に、小学校3年生で初めて参加しました。最初は12級からスタートするのですが、私はトントン拍子に1級まで取得してしまい、その教室で指導をしていた先生に勧められて、小学校4年生から本格的にフィギュアスケートを習い始めました。

—— 名古屋は有名なフィギュアスケート選手を多く輩出している地域ですし、もともとセンスがあったのでしょうね。

加藤 小学生のころは、スケート以外にも、水泳、新体操などいろいろなスポーツをしていました。フィギュアスケートの表現力を磨くためにジャズダンスも習っていました。小学生のときから踊ることや表現することが好きだったようです(笑)。母親がミュージカル好きで、劇団四季などの舞台を見に行くことが多かったのも影響しているかもしれません。

—— いろいろな競技の中で、フィギュアスケートを選んだ動機は何だったのでしょうか。

加藤 小学校6年生のときに、家族と話し合い、続ける競技を一つに絞りました。踊ることが好きだったので、フィギュアスケートか新体操かで悩んだ結果、地元名古屋で盛んなフィギュアスケートを選びました。中学生からは小塚嗣彦・幸子夫妻がコーチを務めるオリオンフィギュアスケーティングクラブに所属しました。

—— 小学生のころから表彰台に立たれていたのですか。

加藤 いえ、入賞がやっとで、表彰台に立つ選手ではありませんでした。私は遅咲きタイプであると自負しています。中学生までは芽が出ませんでしたが、高校1年生でダブルアクセルが飛べるようになり、成績も伸びるようになりました。今の選手たちはジャンプをドンドン飛びますが、当時はダブルアクセルを飛べるか否かが大きなキーで、差がつくポイントでした。

—— 遅咲きとは意外ですね。当時はダブルアクセルがポイントだったのですね。

加藤 インターハイの出場資格は日本スケート連盟フィギュアスケーティングバッジテストの各級によって定められており、私は6級の部門で1位になることができました。その上の7級の部門に出場するためにはダブルアクセルが必須だったので、やっと飛べるようになったときはうれしかったですね。

—— 高校生のとき、1999年第11回小塚トロフィー(小塚杯)で優勝されています。第1回優勝者は伊藤みどりさん、前回の第10回優勝者は鈴木明子さんです。この大会での優勝は自信になったのではないでしょうか。

加藤 この大会は、私の恩師の小塚嗣彦先生のお父さまである小塚光彦氏を記念したもので、ジャンプではなく、表現力のみで審査することが特徴です。私の課題であったジャンプが求められなかったのが幸いしました(笑)。

—— 本来のスケーティングと表現力のみで争う大会で、加藤さんの基本的な技術と素地が高く評価されたのですね。同世代はフィギュアスケートブームを巻き起こした選手たちがひしめいていたと思います。

加藤 そうですね。村主章枝さんは2歳上、荒川静香さんは1歳上で、鈴木明子さんは2歳後輩に当たります。同期は恩田美栄さんです。またオリオンフィギュアスケーティングクラブの後輩に安藤美姫さんもいます。フィギュア選手は他競技と比較して上下関係が厳しくなく、ライバル関係でもリンクを離れると仲良くしていました。
写真1 加藤氏提供
写真:加藤氏提供
—— さて、高校1年生でダブルアクセルが飛べるようになり、フィギュア選手として開花しました。その後の選手としての経歴を教えてください。

加藤 高校1年生から全日本ジュニア大会に出場するようになり、高校2年生の17歳からシニアの大会に参加するようになりました。全日本フィギュアスケート選手権の出場枠30人に入るためには、名古屋在住の私はまず中部地区大会、次に西日本大会で結果を出す必要がありましたが、1999年の第68回全日本フィギュアスケート選手権から6大会連続で出場権を得ることができました。高校3年生のときはインターハイで個人5位、名古屋女子大学高等学校として総合優勝を飾りました。しかし、そのときすでに過食症になっていました。

—— 当時の新聞記事でもスピンとステップの美しさが注目され、将来を嘱望されていました。過大な期待と重圧から過食症になってしまったのでしょうか。

加藤 フィギュアスケートは太ってはいけないスポーツです。もちろん見た目のこともありますし、けがにつながるというのも理由のひとつです。幼少期はぽっちゃり体形でしたが、スケートを始めてから運動量が増え、背も伸びたので、スタイルが良いと周囲からいわれるようになりました。もともと食べることが好きだったのに、いつの日からか「スタイルを崩してはいけない」という強迫観念や、「スタイルを維持しなければならない」というプレッシャーを抱くようになり、食べることを我慢するようになりました。

—— 過食症になったきっかけは何だったのでしょうか。

加藤 高校生になって、周りの人から「食べたら体調が悪くなり、吐いてしまった」という話を聞いて、それを「食べたら吐けばいいんだ」と自分なりに都合よく解釈してしまったのです。大会が近づいているにもかかわらず、食べたいという欲求を我慢できなかったときに、その都合の良い言葉を思い出し、食べたものを吐いたところ、体重をキープすることができました。当時は頻繁ではありませんでしたが、食べて吐く行為によって、むしろ痩せられることに気付きました。大会で良い結果が出始めてきたタイミングでもあり、良い方法を身に付けたと思ってしまいました。これが過食症の始まりです。

—— 過食がひどくなり、パフォーマンスも落ちてしまった時、フィギュアに対する気持ちはどうだったのでしょうか。

加藤 自信がなくモチベーションが高まらない中でも、なんとか全日本選手権出場枠を死守し続けていました。3年生のときは出場権を得ましたが、疲労骨折のために棄権しました。学校もフィギュアスケートも、好きだったのに嫌いになる。練習に行きたいのに行けない自分にストレスを抱き、食べてしまう悪循環が続き、うつ状態も悪化していきました。周囲に悟られぬようにしていましたが、もう自分で過食を制御することができず、大学3年生のときに両親に打ち明けました。

客観的な目が過食症を完治に向かわせる

—— 現役を退くことを22歳で決意された動機は何だったのでしょうか。

加藤 そのころは、多くのフィギュアスケート選手が大学4年生で現役を退いていました。私は過食症やうつ状態のために、大学3年生で退学しましたが、そこでスケートをあきらめるのは嫌でした。卒業年度の年齢である22歳まではフィギュアスケートを続けたいという気持ちが強く、2004~2005年シーズンに挑んでいました。三笠宮賜杯中部日本フィギュア競技会が私にとって最後の大会でしたので、マスコミに対してもこの大会をもって選手を辞める旨を伝えていました。実は試合当日、気持ちが落ち込み、ギリギリまで出場するか悩んでいました。その気持ちを小塚先生に伝えところ、出場を後押ししていただき、最終的には優勝することができました。

—— 過食症を克服するきっかけは何でしょうか。

加藤 25歳のころに知人の紹介で、言葉を円滑に話せない吃音症(きつおんしょう)に悩まれている女性と知り合ったことが、過食症を克服する契機となりました。その方の話を聞いた後に、実は自分も過食症の悩みがあると率直に打ち明けることができました。身内以外で自分をさらけ出すことができた初めての経験でした。自分が病気だと人に知られたくない、誰も理解はしてくれないと勝手に思い込んでいたのが、さらけ出しても何も恥ずかしいことはないのだと感じました。むしろ、話をすることで自分自身を客観視することもできるようになりました。
フィギュアスケートでは、滑っている自分の主観的な目と、客席から自分が滑っている状況を見る客観的な目の両方を描いて滑ることで、冷静な判断ができ、表現力の発揮に結びついていました。しかし、過食症に関しては、人に知られたくないと隠し、主観的な目や考えだけで決めつけて苦しんでいました。吃音症で悩まれている方の話を聞いたことで、客観的な「目」の大事さに気付いたのです。
写真2 中日新聞記事と加藤氏提供写真
記事:中日新聞(2005年2月13日)※この記事・写真等は、中日新聞社の許諾を得て転載しています。
写真:加藤氏提供
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