元ブラインドサッカー日本代表選手 落合啓士氏 セカンドキャリアインタビュー(2)

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2021.5.7

目が見えなくなる恐怖と障がい者になりたくない葛藤

—— 自らを「ポジティブおっちー」と称してさまざまなことにチャレンジされていますが、落合さんのこれまでの半生は想像を絶する苦労があったと思います。目が見えなくなるまでの過程と経緯を教えてください 。

落合 僕は小学校5年生のころまでは目が見えていました。サッカー少年で、アニメのキャプテン翼に憧れ、夜遅くまでボールを蹴っていました。ところが徐々に視力が落ちていき、色の区別ができなくなり、視野が狭くなっていきました。遺伝性の目の病気である網膜色素変性症を発症したのです。特に夜盲症といって、暗い場所で働く網膜の細胞に異常があり、夜になると視力が著しく衰えていきました。中学生で両目の視力が0.5くらいに下がり、文字だけでなく、ボールも人も見えづらくなって、サッカーを諦め、柔道部に入りました。柔道をやったことで、体が頑丈になっただけでなく、ぶつかることに対する恐怖心に免疫ができました。この経験が、後のブラインドサッカーで「臆することなく、激しいぶつかり合いができる」ことにつながります 。

—— 次第に見えにくくなる状況で、高校はどうされたのですか。

落合 遠くや暗闇は見えにくかったのですが、障がい者になりたくないという思いで、高校は普通科に入りました。しかし、どの部活動も視力が低下している中で行える競技はなく、アルバイトに専念しようと思いました。素直に目のことを伝えるとどこも受け入れてくれない中、高校2年生の時に友人の紹介で、すし屋でバイトができることになりました。初めて人に認められた気持ちでした。結果的に高校生活よりもすし屋が楽しくなり、高校3年生で中退してすし職人を目指すことにしました。
半年ほどたった時、朝起きたら目の前が真っ白でした。何度も顔を洗い、少しでも見えることを願いましたが、結局「ついにきたか」と受け入れました。すし職人を続けることが困難になり、退職しました。この先のことを考えることができず、生きる勇気も失い、引きこもりになりました。20歳の時です 。

—— その後はどのような道を歩まれたのですか。

落合 少しずつでも前に進もうと思い、盲学校の3年生に転編入しました。卒業後は、はり・きゅうマッサージのコースに通い、資格取得を目指しました。目が見えない人の仕事は「はり・きゅう・マッサージ」と勝手に思い込んでいました。白杖(はくじょう)をついて電車に乗り、学校に通うわけですが、周囲の人たちに「私は目が見えません」と知らせることになるので、あの杖を使うのがとても嫌でした。地元の駅では知り合いと会う確率も高いので、駅から家までは白杖をしまい、杖を使わずにゆっくり時間をかけて、何も見えない道を足の感覚だけで帰っていました。白杖を使うと、ただ歩いているだけで、「あなた大丈夫?」「目が見えないのに頑張っているわね」と言われることがあります。親切心からでありがたいのですが、当時の僕はその親切を素直に受け止められませんでした。「格好悪い自分を見せたくない」という思いが強かったですね。

—— 盲学校では同じ境遇の方々の中ですから、格好悪いという気持ちを抱かなくても過ごせたのではないでしょうか。

落合 「僕はもともと目が見えていた」というくだらないプライドと偏見があり、周囲とコミュニケーションを取ろうとしませんでした。そんなときにクラスメートから「見えない人の中で、しゃべらなかったら、そこに存在をしていないのと一緒だよ」と言われて衝撃を受けました。僕を含めて目の見えない人が10人いたとして、僕だけ何も話さなければ、他の人は僕に気付かず、9人しかいないことになる。その言葉は、自分自身の存在意義を考える契機になりました。そこからできるだけ人と話すようにしました。フロアバレーボール、ゴールボールの部活にも打ち込みました。22歳で、はり・きゅうマッサージの国家資格も取得しました。

生きていく上で大切なことを全て教えてくれた、ブラインドサッカーとの出会い

 —— ブラインドサッカーとはどのように出会われたのですか。

落合 パラリンピックの陸上競技および自転車競技のメダリストで、ブラインドサッカー日本代表としても活躍された葭原滋男(よしはら・しげお)さんと25歳の時に出会い、2003年始めにブラインドサッカー体験会に誘われました。ブラインドサッカーは視覚障がい者による5人制サッカーで、2002年に日本視覚障がい者サッカー協会(JBFA、現在の日本ブラインドサッカー協会)が発足したばかりで、まだ全国に4チームしかなく、知名度もありませんでした。

—— 初めてブラインドサッカーをプレーされていかがでしたか。

落合 小学生のころにサッカーをしていたので、「目が見えなくてもできる」と高をくくっていました。しかし、目隠しをして、カラカラ鳴るボールを止めるという基礎的なことでしたが 、全然できませんでした(笑)。転がってくるボールを、目が見える感覚で蹴ろうとしますが、タイミングが合わず、空振りの連続でした。

—— ネガティブな体験でしたが、なぜ続けることになったのですか。

落合 帰り支度をしていたら、関係者から「選手が足りないので、試合に出てほしい」と頼まれました。その試合は日本選手権で、僕が参加したチームは準優勝したのですが、ボールに触った覚えはなく、ひたすら走り回っていただけのような気がします(笑)。走ることやぶつかることに恐怖心がなかったのは、中学時代の柔道経験と白杖を使うのが嫌で、駅から家まで足の感覚だけで帰っていたおかげですね。この大会に日本代表チームの監督が視察に来ていて、日本代表の選考合宿への参加を推薦してもらいました。しかし、そのころはブラインドサッカーを楽しいと思えず、練習もしませんでした。合宿では当然うまくプレーできなかったと思ったのですが、後日「日本代表に選ばれました」とメールをもらい、とてもうれしかったのを覚えています。

—— 日本代表選手になったことで、ブラインドサッカーへの向き合い方も変わりましたか。

落合 「代表選手として恥ずかしいプレーはできない」と覚悟しました。千葉県松戸市のブラインドサッカーチーム「B.C. ぴんきぃず」に所属して、一生懸命に練習するようになりました。0が1になり、1が2になるのが楽しくて、そこから17年間ブラインドサッカーを続けることになるわけです。2004年からは、茨城県つくば市の「つくばアスティガース」に所属しながら、平日は仕事に従事していました。

—— ブラインドサッカーとの出会いで、最も大きな気付きは何ですか。

落合 障がいを受け入れられたことです。僕は生まれつき目が見えなかったわけではないからこそ、目が見えないことをネガティブに考え、受け入れられませんでした。常に「自分なんか」と心でつぶやき、悪い方向に自らを仕向けていました。このマイナス思考に終止符を打ち、「目が見えないことこそが強みである」とプラスに転換させてくれたのが、ブラインドサッカーです。日本代表に選ばれたことで、「頑張って」と応援してくれたり、「すごいね、今のプレー」と褒められたりするようになり、大きな自信につながりました。

—— 誇りを感じられたのですね。

落合 当時、ブラインドサッカーの選手人口は少なかったですが、日本代表になれたという事実は誇りです。日本代表になってから、胸を張って杖をついて歩くことができました。杖を使うことが恥ずかしいと思っていた自分のことを、それこそ恥ずかしいと思えるようになりました。そして、「大丈夫?」と声を掛けられても、「大丈夫です」と返せるようになりました。「目が見えないのに頑張っていますね」と言われたら、「ありがとうございます」と言えるようになりました。人の声掛けを素直にプラスに受け止められるようになりました。

—— ブラインドサッカーをきっかけにして、自信が生まれ、ポジティブ志向に変わっていったのですね。

落合 自分で行動を起こさなければ、「変わるきっかけ」は絶対に手に入れることはできません。体験会に行かなければブラインドサッカーとは出会えていないし、面白くないと大会に出場していなければ代表にもなっていません。行動を起こす前は不安ですが、取りあえずやってみる。そしてうまくいかなくても努力する。その努力の先には喜びがある。そう思えば努力が楽しくなっていき、その経験を積み重ねていくことで、周囲から認められるようになります。人から承認されると、自分が大きく変わることができ、ポジティブになれますね。
写真:落合氏提供
写真:落合氏提供
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