—— 自らを「ポジティブおっちー」と称してさまざまなことにチャレンジされていますが、落合さんのこれまでの半生は想像を絶する苦労があったと思います。目が見えなくなるまでの過程と経緯を教えてください 。
落合 僕は小学校5年生のころまでは目が見えていました。サッカー少年で、アニメのキャプテン翼に憧れ、夜遅くまでボールを蹴っていました。ところが徐々に視力が落ちていき、色の区別ができなくなり、視野が狭くなっていきました。遺伝性の目の病気である網膜色素変性症を発症したのです。特に夜盲症といって、暗い場所で働く網膜の細胞に異常があり、夜になると視力が著しく衰えていきました。中学生で両目の視力が0.5くらいに下がり、文字だけでなく、ボールも人も見えづらくなって、サッカーを諦め、柔道部に入りました。柔道をやったことで、体が頑丈になっただけでなく、ぶつかることに対する恐怖心に免疫ができました。この経験が、後のブラインドサッカーで「臆することなく、激しいぶつかり合いができる」ことにつながります 。
—— 次第に見えにくくなる状況で、高校はどうされたのですか。
落合 遠くや暗闇は見えにくかったのですが、障がい者になりたくないという思いで、高校は普通科に入りました。しかし、どの部活動も視力が低下している中で行える競技はなく、アルバイトに専念しようと思いました。素直に目のことを伝えるとどこも受け入れてくれない中、高校2年生の時に友人の紹介で、すし屋でバイトができることになりました。初めて人に認められた気持ちでした。結果的に高校生活よりもすし屋が楽しくなり、高校3年生で中退してすし職人を目指すことにしました。
半年ほどたった時、朝起きたら目の前が真っ白でした。何度も顔を洗い、少しでも見えることを願いましたが、結局「ついにきたか」と受け入れました。すし職人を続けることが困難になり、退職しました。この先のことを考えることができず、生きる勇気も失い、引きこもりになりました。20歳の時です 。
—— その後はどのような道を歩まれたのですか。
落合 少しずつでも前に進もうと思い、盲学校の3年生に転編入しました。卒業後は、はり・きゅうマッサージのコースに通い、資格取得を目指しました。目が見えない人の仕事は「はり・きゅう・マッサージ」と勝手に思い込んでいました。白杖(はくじょう)をついて電車に乗り、学校に通うわけですが、周囲の人たちに「私は目が見えません」と知らせることになるので、あの杖を使うのがとても嫌でした。地元の駅では知り合いと会う確率も高いので、駅から家までは白杖をしまい、杖を使わずにゆっくり時間をかけて、何も見えない道を足の感覚だけで帰っていました。白杖を使うと、ただ歩いているだけで、「あなた大丈夫?」「目が見えないのに頑張っているわね」と言われることがあります。親切心からでありがたいのですが、当時の僕はその親切を素直に受け止められませんでした。「格好悪い自分を見せたくない」という思いが強かったですね。
—— 盲学校では同じ境遇の方々の中ですから、格好悪いという気持ちを抱かなくても過ごせたのではないでしょうか。
落合 「僕はもともと目が見えていた」というくだらないプライドと偏見があり、周囲とコミュニケーションを取ろうとしませんでした。そんなときにクラスメートから「見えない人の中で、しゃべらなかったら、そこに存在をしていないのと一緒だよ」と言われて衝撃を受けました。僕を含めて目の見えない人が10人いたとして、僕だけ何も話さなければ、他の人は僕に気付かず、9人しかいないことになる。その言葉は、自分自身の存在意義を考える契機になりました。そこからできるだけ人と話すようにしました。フロアバレーボール、ゴールボールの部活にも打ち込みました。22歳で、はり・きゅうマッサージの国家資格も取得しました。
落合 僕は小学校5年生のころまでは目が見えていました。サッカー少年で、アニメのキャプテン翼に憧れ、夜遅くまでボールを蹴っていました。ところが徐々に視力が落ちていき、色の区別ができなくなり、視野が狭くなっていきました。遺伝性の目の病気である網膜色素変性症を発症したのです。特に夜盲症といって、暗い場所で働く網膜の細胞に異常があり、夜になると視力が著しく衰えていきました。中学生で両目の視力が0.5くらいに下がり、文字だけでなく、ボールも人も見えづらくなって、サッカーを諦め、柔道部に入りました。柔道をやったことで、体が頑丈になっただけでなく、ぶつかることに対する恐怖心に免疫ができました。この経験が、後のブラインドサッカーで「臆することなく、激しいぶつかり合いができる」ことにつながります 。
—— 次第に見えにくくなる状況で、高校はどうされたのですか。
落合 遠くや暗闇は見えにくかったのですが、障がい者になりたくないという思いで、高校は普通科に入りました。しかし、どの部活動も視力が低下している中で行える競技はなく、アルバイトに専念しようと思いました。素直に目のことを伝えるとどこも受け入れてくれない中、高校2年生の時に友人の紹介で、すし屋でバイトができることになりました。初めて人に認められた気持ちでした。結果的に高校生活よりもすし屋が楽しくなり、高校3年生で中退してすし職人を目指すことにしました。
半年ほどたった時、朝起きたら目の前が真っ白でした。何度も顔を洗い、少しでも見えることを願いましたが、結局「ついにきたか」と受け入れました。すし職人を続けることが困難になり、退職しました。この先のことを考えることができず、生きる勇気も失い、引きこもりになりました。20歳の時です 。
—— その後はどのような道を歩まれたのですか。
落合 少しずつでも前に進もうと思い、盲学校の3年生に転編入しました。卒業後は、はり・きゅうマッサージのコースに通い、資格取得を目指しました。目が見えない人の仕事は「はり・きゅう・マッサージ」と勝手に思い込んでいました。白杖(はくじょう)をついて電車に乗り、学校に通うわけですが、周囲の人たちに「私は目が見えません」と知らせることになるので、あの杖を使うのがとても嫌でした。地元の駅では知り合いと会う確率も高いので、駅から家までは白杖をしまい、杖を使わずにゆっくり時間をかけて、何も見えない道を足の感覚だけで帰っていました。白杖を使うと、ただ歩いているだけで、「あなた大丈夫?」「目が見えないのに頑張っているわね」と言われることがあります。親切心からでありがたいのですが、当時の僕はその親切を素直に受け止められませんでした。「格好悪い自分を見せたくない」という思いが強かったですね。
—— 盲学校では同じ境遇の方々の中ですから、格好悪いという気持ちを抱かなくても過ごせたのではないでしょうか。
落合 「僕はもともと目が見えていた」というくだらないプライドと偏見があり、周囲とコミュニケーションを取ろうとしませんでした。そんなときにクラスメートから「見えない人の中で、しゃべらなかったら、そこに存在をしていないのと一緒だよ」と言われて衝撃を受けました。僕を含めて目の見えない人が10人いたとして、僕だけ何も話さなければ、他の人は僕に気付かず、9人しかいないことになる。その言葉は、自分自身の存在意義を考える契機になりました。そこからできるだけ人と話すようにしました。フロアバレーボール、ゴールボールの部活にも打ち込みました。22歳で、はり・きゅうマッサージの国家資格も取得しました。