—— ブラインドサッカー選手をしながら、どのような仕事をされていたのですか。
落合 最初ははり・きゅうマッサージの資格を生かして、知人が営む鍼灸(しんきゅう)院で働きました。その後、2001年にパソナグループ健康推進室の企業内ヘルスキーパーに転職しました。福利厚生の一環である社員向けのマッサージ師です。翌年からは1人暮らしも始めました。
—— 仕事もプライベートも積極的に動かれたのですね。
落合 パソナグループは人材派遣のリーディングカンパニーですので、ビジネストレーニングが本格的でした。視覚障がい者の僕に対しても一般の社員と同じように、厳しく指導していただきました。おかげで社会人としての素地ができました。目が見えないため、特に身だしなみが不得意でしたが、見られる意識が養えました。
2004年春、パソナの大阪支社でマッサージルームを新たに設置する話を聞き、「私が行きましょうか」と手を挙げました。ブラインドサッカーは関西発祥であり、大阪はその中心地の1つです。高いレベルでブラインドサッカーをしたいという思いもありました。
落合 最初ははり・きゅうマッサージの資格を生かして、知人が営む鍼灸(しんきゅう)院で働きました。その後、2001年にパソナグループ健康推進室の企業内ヘルスキーパーに転職しました。福利厚生の一環である社員向けのマッサージ師です。翌年からは1人暮らしも始めました。
—— 仕事もプライベートも積極的に動かれたのですね。
落合 パソナグループは人材派遣のリーディングカンパニーですので、ビジネストレーニングが本格的でした。視覚障がい者の僕に対しても一般の社員と同じように、厳しく指導していただきました。おかげで社会人としての素地ができました。目が見えないため、特に身だしなみが不得意でしたが、見られる意識が養えました。
2004年春、パソナの大阪支社でマッサージルームを新たに設置する話を聞き、「私が行きましょうか」と手を挙げました。ブラインドサッカーは関西発祥であり、大阪はその中心地の1つです。高いレベルでブラインドサッカーをしたいという思いもありました。
—— その当時、メンターや相談相手になってくださる方はいましたか。
落合 はい。2004年から2011年までブラインドサッカー日本代表監督を務められた、風祭喜一 (かざまつり・きいち)さんです。普段は兵庫県で学校の先生をされており、特別支援学校の先生の経験もある方です。とても人徳があり、僕も成長をさせていただいた恩師です。僕が大阪転勤を希望したのも、風祭さんが監督の「大阪ダイバンズ」でプレーがしたいという気持ちもあったからです。実際に、転勤に伴って、2004年9月に移籍しました。
—— 理解してくれる監督の下でプレーできることになり、モチベーションが高まったのではないでしょうか。
落合 大阪に移り、自分を変えてくれたブラインドサッカーで結果を残したいと、人一倍意気込んでいました。しかし、それが行き過ぎて、自己中心的になっていたのかもしれません。ミスした選手にはすぐに腹を立て、自分の起用法を巡って監督に不満をぶつけ、代表候補の合宿では審判に横柄な態度を取りました。2005年にはついに、日本代表チームの監督でもあった風祭さんに、日本代表メンバーから外されてしまいました。
—— それはショックでしたね。どう乗り越えられたのですか。
落合 会社を4日間休み、食欲もなく、ブラインドサッカーを辞める旨をチームメイトにメールしました。すると、毎日のように彼らから連絡が来るようになりました。1カ月は無視しましたが、それでも「一緒にサッカーをやろう」と言ってくる。電話で断っても、また連絡が来る。それを繰り返しているうちに、横柄で自己中心的な自分でも必要としてくれる仲間がいると気が付きました。3カ月後、気持ちを入れ替え、チームに復帰させてもらいました。
—— 日本代表の精神的支柱として、キャプテンシーを発揮する選手へとつながる、大きなきっかけになりましたね。
落合 このことで、周囲の人たちのことを考える大切さ、自分自身よりもチームの和を大事にする心が、僕に大きく欠落していたことを自覚しました。周囲への態度を改め、思いやりを持つことで、発する言葉も変わったと思います。こうしたことに気付かせてくれた風祭監督には感謝しかありません。そして、チームメイトは、「思っていたより繊細なんやなぁ。もう少し早く復帰すると思ったけど、時間がかかったな」と笑顔で迎えてくれました。
—— その後はいかがでしたか。
落合 0から1を作り上げることの楽しさを求め、2007年3月に博報堂の大阪支社のオープニングスタッフに転職しました。その後、豊洲支社の新規立ち上げの話が持ち上がり、その準備のために、2008年に東京に戻りました。並行して茨城県つくば市のブラインドサッカーチーム「Avanzareつくば」に移籍しました。
その年に神奈川県で日本ブラインドサッカー協会の体験会があり、参加者から神奈川県にもチームを作ってほしいという声をいただきました。仲間の後押しもあり、新チーム結成に向けて動くことになりました。そして、2010年12月に、神奈川県横浜市を活動拠点とする「buen cambio yokohama」(ブエンカンビオ横浜)を設立しました。スペイン語で「いい変化」という意味のチームです。それを契機に、けがもあって、第一線を離れることにしました。
—— 数カ月後には復帰され、長く日本代表キャプテンとして活躍されますが、そのきっかけは何でしたか?
落合 2011年3月の東日本大震災です。引退も視野に入れていたのですが、被災者の方々のために僕に何かできることはないかと考えた末、やはり日本代表として活躍すること以外にないと思い定めました。4月1日に復帰宣言をし、皆さんに元気を与えようと被災した地方へ行くのですが、逆に僕が力をもらって帰ってきました。東北の方々に恩返しがしたい一心で、その後9年間も頑張れました。そうした中で、2012年に日本代表のキャプテンになりました。
—— 活躍の場がさらに広がっていったのですね。
落合 そのころ、ブラインドサッカー協会のスポンサーをしていた会社が、新たに社員向けマッサージのオープニングスタッフを探しているという話を聞きました。0から1を作る仕事は実績が豊富にあったので、2012年その企業へ転職しました。協会の人からも後押ししていただいたことで、初めてアスリート雇用契約をいただけました 。それまでは、障がい者雇用枠でのヘルスキーパーとしての契約であり、ブラインドサッカーとは切り離された契約でしたが、選手と仕事面の両方を評価していただきました。
—— これはブラインドサッカー界の快挙です。仕事について教えていただけますか。
落合 就業時間が9時半から18時まで、土日祝日が休みです。ブラインドサッカーとの両立に適した環境です。また、個人的なチャレンジができる企業風土があり、マッサージ師の業務以外で私的なビジネスを起こすことも可能です。仕事面では会社全体に多様性を尊重するベースがあり、障がい者という枠の中で判断する前に、今までの自分が培ってきた経験を認めてくれます。職場は、リーダーの僕と3人でマッサージチームとして運営していますが、管轄する人事部長が僕を信頼し、権限を委譲してくれています 。 信頼してもらえることは誇りと自信につながります 。本当にうれしい ですね。
—— 仕事でもリーダーシップを発揮されているのですね。
落合 ブラインドサッカーは目が見えない人の中での世界ですが、仕事では上司や利用者は視覚に障がいのない人です。その中でグループリーダーを任され、新しいスタッフの育成、社内で認知をしてもらう広報活動、足を運んでもらうための企画立案、社内メールを活用した健康メールの配信活動などに取り組んできました。マッサージをするだけではなく、集客や認知活動を経験できたのは、僕にとって大きなプラスです。
—— リーダーに起用されて、気付いたことはありますか。
落合 リーダーとして「共有する大切さ」を意識するようになりました。自発的に活動し、お互いを知る機会を増やすと、偏見がなくなります。また、チームのスタッフがミスをした時に、個人にフォーカスせずに、ミスをする要因を見ることを大切にしています。それによって、全体を客観的に見られるようになったと思います。
—— アスリート出身のビジネスパーソンとして、自覚している強みと弱みを教えてください。
落合 強みは、チームスポーツを通じて、自分の考えが100%正しいとは限らないと知ったことですね。ミスを良い経験と捉えたり、人間の意思や考え方は十人十色であることを認めたり、完全でなくても70%のところで先に進んだりできるようになりました。
一方で、負けず嫌いになったことは弱みかもしれません。「努力すること」と「がむしゃらにすること」は似て非なることを、キャリアを積む過程で気付きました。スポーツも仕事も冷静な判断は必要で、必死な気持ちが強すぎると判断を間違えることがあります。歯を食いしばり過ぎず、楽しんでやる 。僕の性格が完璧主義の負けず嫌いで、これが自分の弱点だと理解できました(笑)。
—— 最後に、現役選手に先輩として、セカンドキャリアのアドバイスをお願いします。
落合 「自分が向き合っているスポーツを、ビジネスに置き換えたら、何に生かせるのか」を考えましょう。「現役を退いたら、これから何をしよう」ではなく、選手時代から 、自分の強みに気付き、他人の強みにも目を向けましょう。それを知っているか、知らないかでは、トレーニングに取り組む考え方も変わります。惰性的に取り組むのではなく、考えながら行動するようにしてください。日々、24時間、オフの時も、どんなことにつながるのか考えながら動く。そして全てをポジティブに考えましょう 。
落合 はい。2004年から2011年までブラインドサッカー日本代表監督を務められた、風祭喜一 (かざまつり・きいち)さんです。普段は兵庫県で学校の先生をされており、特別支援学校の先生の経験もある方です。とても人徳があり、僕も成長をさせていただいた恩師です。僕が大阪転勤を希望したのも、風祭さんが監督の「大阪ダイバンズ」でプレーがしたいという気持ちもあったからです。実際に、転勤に伴って、2004年9月に移籍しました。
—— 理解してくれる監督の下でプレーできることになり、モチベーションが高まったのではないでしょうか。
落合 大阪に移り、自分を変えてくれたブラインドサッカーで結果を残したいと、人一倍意気込んでいました。しかし、それが行き過ぎて、自己中心的になっていたのかもしれません。ミスした選手にはすぐに腹を立て、自分の起用法を巡って監督に不満をぶつけ、代表候補の合宿では審判に横柄な態度を取りました。2005年にはついに、日本代表チームの監督でもあった風祭さんに、日本代表メンバーから外されてしまいました。
—— それはショックでしたね。どう乗り越えられたのですか。
落合 会社を4日間休み、食欲もなく、ブラインドサッカーを辞める旨をチームメイトにメールしました。すると、毎日のように彼らから連絡が来るようになりました。1カ月は無視しましたが、それでも「一緒にサッカーをやろう」と言ってくる。電話で断っても、また連絡が来る。それを繰り返しているうちに、横柄で自己中心的な自分でも必要としてくれる仲間がいると気が付きました。3カ月後、気持ちを入れ替え、チームに復帰させてもらいました。
—— 日本代表の精神的支柱として、キャプテンシーを発揮する選手へとつながる、大きなきっかけになりましたね。
落合 このことで、周囲の人たちのことを考える大切さ、自分自身よりもチームの和を大事にする心が、僕に大きく欠落していたことを自覚しました。周囲への態度を改め、思いやりを持つことで、発する言葉も変わったと思います。こうしたことに気付かせてくれた風祭監督には感謝しかありません。そして、チームメイトは、「思っていたより繊細なんやなぁ。もう少し早く復帰すると思ったけど、時間がかかったな」と笑顔で迎えてくれました。
—— その後はいかがでしたか。
落合 0から1を作り上げることの楽しさを求め、2007年3月に博報堂の大阪支社のオープニングスタッフに転職しました。その後、豊洲支社の新規立ち上げの話が持ち上がり、その準備のために、2008年に東京に戻りました。並行して茨城県つくば市のブラインドサッカーチーム「Avanzareつくば」に移籍しました。
その年に神奈川県で日本ブラインドサッカー協会の体験会があり、参加者から神奈川県にもチームを作ってほしいという声をいただきました。仲間の後押しもあり、新チーム結成に向けて動くことになりました。そして、2010年12月に、神奈川県横浜市を活動拠点とする「buen cambio yokohama」(ブエンカンビオ横浜)を設立しました。スペイン語で「いい変化」という意味のチームです。それを契機に、けがもあって、第一線を離れることにしました。
—— 数カ月後には復帰され、長く日本代表キャプテンとして活躍されますが、そのきっかけは何でしたか?
落合 2011年3月の東日本大震災です。引退も視野に入れていたのですが、被災者の方々のために僕に何かできることはないかと考えた末、やはり日本代表として活躍すること以外にないと思い定めました。4月1日に復帰宣言をし、皆さんに元気を与えようと被災した地方へ行くのですが、逆に僕が力をもらって帰ってきました。東北の方々に恩返しがしたい一心で、その後9年間も頑張れました。そうした中で、2012年に日本代表のキャプテンになりました。
—— 活躍の場がさらに広がっていったのですね。
落合 そのころ、ブラインドサッカー協会のスポンサーをしていた会社が、新たに社員向けマッサージのオープニングスタッフを探しているという話を聞きました。0から1を作る仕事は実績が豊富にあったので、2012年その企業へ転職しました。協会の人からも後押ししていただいたことで、初めてアスリート雇用契約をいただけました 。それまでは、障がい者雇用枠でのヘルスキーパーとしての契約であり、ブラインドサッカーとは切り離された契約でしたが、選手と仕事面の両方を評価していただきました。
—— これはブラインドサッカー界の快挙です。仕事について教えていただけますか。
落合 就業時間が9時半から18時まで、土日祝日が休みです。ブラインドサッカーとの両立に適した環境です。また、個人的なチャレンジができる企業風土があり、マッサージ師の業務以外で私的なビジネスを起こすことも可能です。仕事面では会社全体に多様性を尊重するベースがあり、障がい者という枠の中で判断する前に、今までの自分が培ってきた経験を認めてくれます。職場は、リーダーの僕と3人でマッサージチームとして運営していますが、管轄する人事部長が僕を信頼し、権限を委譲してくれています 。 信頼してもらえることは誇りと自信につながります 。本当にうれしい ですね。
—— 仕事でもリーダーシップを発揮されているのですね。
落合 ブラインドサッカーは目が見えない人の中での世界ですが、仕事では上司や利用者は視覚に障がいのない人です。その中でグループリーダーを任され、新しいスタッフの育成、社内で認知をしてもらう広報活動、足を運んでもらうための企画立案、社内メールを活用した健康メールの配信活動などに取り組んできました。マッサージをするだけではなく、集客や認知活動を経験できたのは、僕にとって大きなプラスです。
—— リーダーに起用されて、気付いたことはありますか。
落合 リーダーとして「共有する大切さ」を意識するようになりました。自発的に活動し、お互いを知る機会を増やすと、偏見がなくなります。また、チームのスタッフがミスをした時に、個人にフォーカスせずに、ミスをする要因を見ることを大切にしています。それによって、全体を客観的に見られるようになったと思います。
—— アスリート出身のビジネスパーソンとして、自覚している強みと弱みを教えてください。
落合 強みは、チームスポーツを通じて、自分の考えが100%正しいとは限らないと知ったことですね。ミスを良い経験と捉えたり、人間の意思や考え方は十人十色であることを認めたり、完全でなくても70%のところで先に進んだりできるようになりました。
一方で、負けず嫌いになったことは弱みかもしれません。「努力すること」と「がむしゃらにすること」は似て非なることを、キャリアを積む過程で気付きました。スポーツも仕事も冷静な判断は必要で、必死な気持ちが強すぎると判断を間違えることがあります。歯を食いしばり過ぎず、楽しんでやる 。僕の性格が完璧主義の負けず嫌いで、これが自分の弱点だと理解できました(笑)。
—— 最後に、現役選手に先輩として、セカンドキャリアのアドバイスをお願いします。
落合 「自分が向き合っているスポーツを、ビジネスに置き換えたら、何に生かせるのか」を考えましょう。「現役を退いたら、これから何をしよう」ではなく、選手時代から 、自分の強みに気付き、他人の強みにも目を向けましょう。それを知っているか、知らないかでは、トレーニングに取り組む考え方も変わります。惰性的に取り組むのではなく、考えながら行動するようにしてください。日々、24時間、オフの時も、どんなことにつながるのか考えながら動く。そして全てをポジティブに考えましょう 。