—— 名門大学で輝かしい実績をおさめ、その後、社会人野球に進みました。アマチュア時代の実績を考えると、プロ野球選手に十分なれたのではと思うのですが、いかがだったのでしょうか。
小杉 いえ、力不足でした。私の夢はプロ野球選手になること、そして、オリンピックに出場することでした。大学4年生の時にシドニーオリンピックがありましたが、その大会からプロアマ混合チームになったこともあり、オリンピック出場の夢はかないませんでした。悔しかったのは、切磋琢磨(せっさたくま)してきた同級生のチームメイトが代表としてオリンピックに出場したのに、私は日本で応援しかできなかったことです。彼が登板する試合を、大学の監督と私、地元メディアの皆さんと一緒にテレビで応援したことを覚えています。悔しい思いをしましたが自分の力不足を真摯(しんし)に受け止め、改めて4年後のアテネオリンピックで日本代表入りを目指し、社会人野球選手の道を選択しようと思いました。
—— 大学卒業後は社会人野球の松下電器野球部(現パナソニック野球部)に在籍されます。
小杉 2001年より在籍し、2004年末に引退するまで、都市対抗野球大会に4年連続出場し、ベスト4が1回、ベスト8が1回。社会人野球日本選手権大会には4年連続出場し、ベスト8が2回でした。松下電器野球部では、プロ野球選手を目指しつつも、4年後のアテネオリンピックに日本代表として出場することを夢見て野球に取り組みました。3年目のシーズンでは主軸の4番を打たせてもらったこともありますが、在籍した4年間通して考えると、満足のいく成績は収められませんでした。最後の4年目のシーズンは結果が出せず、同じ年のアテネオリンピックへの出場もかないませんでした。それに加えて、監督が交代して選手の起用法も変わり、出場機会も激減しました。
—— シーズン終了後に引退勧告のようなものがあったのですか?
小杉 野球部長や監督などのフロント陣と面談があり、戦力外通告を受けました。シーズン中に引退を覚悟していましたが、直接言われたときはさすがにショックでした。
—— シーズン途中に引退の二文字が頭をよぎってから、何か引退後を見据えた取り組みはされましたか?
小杉 シーズン後半は引退後を見据えて3つの取り組みを行いました。第一に野球部の若手育成。第二にスキルアップとして英語の勉強。そして第三に、社会人としての目標を立てるため、次にやりたい仕事を探すことでした。
—— 次にやりたい仕事は見つかったのですか?
小杉 スポーツビジネスに携われる仕事を、社内でいろいろ探しました。その際、パナソニックの社内報で取り上げられていたメジャーリーグ向けのB2Bシステム開発の記事が目に留まりました。そのような部署でスポーツに貢献したいと思ったことを覚えています。戦力外通告を受けた面談では、職場に復帰する際はスポーツビジネスに関わりたいと伝えました。
—— フロントの反応はいかがでしたか。
小杉 戦力外通告のショックで覚えていません(笑)。ただ、パナソニック社員として仕事のイロハを勉強すること、スポーツビジネスは海外、特に米国を対象とした事業になるため、英語ができるようになってから、というメモが残っていました。結果としては、野球部所属時から配属されていた調達部門への復帰となりました。26歳の冬のことでした。
—— 実業団選手の中には引退後に、会社に残らないという選択をする人もいます。スポーツビジネスに就きたいという新たな夢に向かうにあたり、パナソニックにこだわった理由はなんでしょうか。
小杉 私はスポーツで貢献するためにパナソニックに入社しました。野球選手として結果が出せなかったことから次は社業で貢献したいと思ったのです。しかし、優秀な社員がたくさんいる中で、20年間、野球しかやってこなかった自分が通用するのだろうかと実際のところ、不安もいっぱいでした。
幸いパナソニックはさまざまな部門があり、スポーツビジネスの仕事をするという次の目標が社内にありましたので、会社の中でセカンドキャリアに挑むという気持ちになれました。スポーツビジネスの仕事にすぐには就けませんでしたが、まずは配属された調達部門で頑張ろうと思いました。
写真:小杉氏提供(左:大阪ドーム現役最後の打席、右:東京ドーム プロモーション映像撮影)