元シンクロナイズドスイミング五輪メダリスト 川嶋奈緒子氏 セカンドキャリアインタビュー

なぜメダリストが過酷といわれるテレビ業界のADをセカンドキャリアに選んだのか。

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2020.12.11
小学校2年生の時、テレビ番組がきっかけでシンクロナイズドスイミング(アーティスティックスイミング)に興味を持った川嶋奈緒子(かわしま・なおこ)氏。幼いころからの家庭での躾(しつけ)や教育、さらにシンクロを習い始めたことで人間力が少しずつ身についていったことに今も感謝。負けず嫌いの性格で、気がついたらセカンドキャリアも10年を超えた。契約社員から正社員へ昇格し、アシスタントディレクター(AD)からエースディレクターへ。今は、「2022世界水泳福岡大会」に向けてまい進中。そもそもなぜ五輪メダリストが過酷といわれるテレビ業界のADをセカンドキャリアに選んだのか。2人の上司からもメッセージをいただき、その志に迫る。

骨折から骨も心も強くなり視野も広がった

—— 2004年アテネ五輪の水泳・シンクロナイズドスイミング(以下:シンクロ)でチーム銀メダルを獲得。2008年の北京五輪では5位に入賞されました。まず、シンクロを始められたきっかけは何だったのでしょうか?

川嶋 小さいころから習い事として水泳とバレエをやっていましたが、小学校2年生(9歳)の時にシンクロを題材にしたテレビドラマ「スワンの涙」を見てシンクロに関心を持ちました。

—— シンクロ選手としての経歴を教えてください。

川嶋 小学校3年生の時から金子スイミングスクール(現在のアクラブ調布)でシンクロの練習を始めました。小学校5年生のジュニアオリンピックでチーム優勝。小学校6年生の時には、ジュニアオリンピックで、ソロで準優勝、デュエットで優勝しました。中学生になっても継続し、2年生の時のジュニアオリンピックで、ついにソロで優勝しました。国士舘高校に進学した後もアクラブ調布に所属しシンクロを続け、1997年の1年生の時にジュニア日本代表に選出され、ジュニアワールドカップに出場しチーム2位、2年生の時にアメリカンカップでソロ1位、3年生の時にUSオープンでデュエット優勝、チーム優勝をしました。2000年、国士舘大学に進学してからはナショナルBチーム入りをし、翌年よりナショナルAチームに選出され、アテネ五輪でチーム銀メダルを獲得、そして、2008年の北京五輪を最後に引退しました。
写真1 アテネ五輪・北京五輪での川嶋氏
写真:川嶋氏提供(左上・左下:アテネ五輪、右:北京五輪)
—— アテネ五輪終了後に井村雅代先生が日本代表コーチを退任されましたが、井村先生には日本代表時代大変お世話になったと聞いています。思い出を教えてください。

川嶋 選手のことをよく見ている方で、その時の、その選手に合った言葉をかけてくれました。1日10時間を超える練習は当たり前でしたが、今でも心より感謝をしております。引退してから、現在のテレビの仕事を始めたことで、井村先生と話す機会が増えました。現役時代からいろいろと話をしていれば、もっといろいろなことが吸収できたのではないかと思います。ただ当時は怖くてあまり話せませんでした(笑)。 

—— 1日10時間の練習はすごいですね。

川嶋 シンクロは水の中で演技をするため、「メンバー全員で合わせる」ことがとても難しい競技だからです。一瞬のズレでもわかってしまいます。一つひとつの演技を呼吸から合わせるために何十回も繰り返しているうちに、気づいたら時間がたってしまうのです。納得がいくまで繰り返す練習量が大切なのだと思います。

—— その後、2004年アテネ大会と2008年北京大会の間の2006年のワールドカップ前に骨折をされたと伺いましたが、どんな状態だったのですか?

川嶋 2006年7月に練習中に接触し左足の人さし指を骨折しました。足の指というのは立ち泳ぎするときに大切な役目を果たします。9月に試合が控えていたこともあり、とにかく早く治そうと、国立スポーツ科学センターで治療とリハビリを行いました。試合直前もリハビリをしながら泳いでいました。そして、試合後もリハビリを続けていましたが、10月にまた同じところを骨折してしまい、結果的に長い期間、通院をすることになりました。ただ、このリハビリ期間は、振り返ると新しい発見を得ることができた有意義な時間だったと思います。

—— 有意義だった点を具体的に教えていただけますか?
川嶋 フェンシング、サッカー、レスリング、体操などシンクロ以外の競技でリハビリをしている同じ境遇のトップアスリートたちとの交流を通じて視野が広がったことです。多くの競技の中でシンクロはどちらかというと練習時間が長く、閉鎖性が強い競技スポーツであるといえます。同じ水泳種目でも競泳の選手とは交流がほとんどありません。
ただ、私の場合は、このリハビリ期間に他競技のアスリートと話ができたことで、自分自身が多面的に成長できる貴重な時間とすることができました。他競技の選手たちからシンクロについて質問を受けることはうれしかったですし、私もシンクロ以外の競技のことは知らなかったので反対にいろいろと質問をしました。

—— 他競技のアスリートからシンクロについて、どんな質問がありましたか?

川嶋 「水中で音楽は聞こえるのですか?」と質問されたことがありました。実際に水中で音が聞こえるのですが、こういうことも知らないのかと、シンクロ競技者の中では当たり前のことが、他種目の競技者からは素朴な疑問であったことに新鮮な驚きがありました。逆に他のいろいろな競技を知ることができたことも大きな発見でした。リハビリ期間中の経験が、その後のシンクロ競技や引退後のセカンドキャリアを考えることにつながっています。
写真2 川嶋氏近影
写真:山本浩氏撮影
—— 川嶋さんにとってリハビリ期間がターニングポイントだったのかもしれませんね。

川嶋 そうだと思います。シンクロを知らない人にシンクロを伝えることができるとともに、自分の知らない競技に触れる楽しさを知ることもでき、スポーツを知らない人にスポーツを伝えたくなりました。リハビリ終了後、母に「将来はスポーツを取材して伝えることを仕事にしてみたい」と話したことを思い出します。その時はまだ現役中だったこともあり漠然としていましたが。

—— リハビリでの気づきから2年後の2008年9月に競技を引退され、実際に、10月には番組制作会社である東京サウンド・プロダクションへ入社されています。セカンドキャリアがスムーズだったのですね。

川嶋 実は私の幼なじみの同級生に、テレビ朝日でアナウンサーをされている上宮菜々子さんがいます。母親同士も仲が良くて、私が引退するころ、母は上宮さんのお母さまに「娘がテレビの仕事に興味があるみたい」と話をしていたようです。ご縁が重なりトントン拍子で話が進んでいき、引退1カ月後の10月から東京サウンド・プロダクションに契約社員として入社することができました。

—— お母さまもリハビリの時の話を忘れていらっしゃらなかったのですね。そのお母さまの躾(しつけ)も厳しかったとお聞きしていますが、いかがだったのでしょうか?

川嶋 母は私が「やりたい」と思ったことには全力で応援してくれました。私のやることについては、私がやりたいようにすればいいと、余計な干渉は一切してこなかったです。私が試合で着る水着のスパンコールを徹夜で付けてくれたり、朝練習の送り迎えをしてくれたりと、両親には本当にいろいろと助けてもらいました。もちろん、私の意見を尊重してくれる半面、自分が「やる」と言って始めているわけですから、納得いかない辞め方はできない厳しさはあったと思います。それでおのずと負けず嫌いになっていったのかもしれません。
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