元ボクサー・元総合格闘家 中村圭志氏 セカンドキャリアインタビュー

アスリートでの2度の過ち、料理人として3度めはない。

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2021.7.29
歴史に「if」はない。しかし、「あの時に逆の選択をしたら、どんな人生だったのだろうか」と思うことは誰にでもある。また、自分の意志に反して手にしたポジション、時流の流れで得てしまった環境もある。中村圭志(なかむら・たかし)氏は、ボクサー・総合格闘家・料理人という3つのキャリアを主軸に奔走しながら、前を向いて歩み続けている。バラバラのように見えて横串が通っている生きざまから、セカンドキャリアとは何であるのかを探ってみた。

「2敗したら終わり」の遅咲きプロボクサー

—— どのようなきっかけで、ボクシングと縁ができたのですか。

中村 大学を卒業した1996年は、就職氷河期の時代でした。思うような就職先が見つからず、それなら何か好きなことにチャレンジしようと思い、役者の道へ進むために上京しました。結局、それがボクシングとの縁につながりました。

—— なぜ役者の道を志そうと思ったのですか。

中村 「目立ちたい」という単純な動機です。東京に行けば何とかなるという地方出身者の憧れと思い込みで、東京・八王子に住んでいた親戚を頼りに上京しました。役者になるために、オーディションを受けるわけですが、自分にはその応募書類の中でアピールできる特技がありませんでした。そのときに、マイク・タイソンや辰吉丈一郎選手に憧れていた学生時代の記憶、脳裏の片隅にあった「ボクシング」が出てきて、それを書けたらカッコいいなと思ったのです。

—— ボクシングを始めたのは、それがきっかけだったのですか?

中村 筋トレや体を動かすことが好きでしたし、役者にとっての体力づくりになると思いました。ちょうど近所に一般人対象のボクシングジムがあったので、そこに入会し、ミット打ちをして汗を流しました。23歳にして初めて、ボクシングのグローブを身に着けました。

—— 最初は軽い動機からのスタートだったのですね。

中村 そうですね。それからまもなく、豊島区の大塚駅近くで1人暮らしをすることになりました。引っ越し当日、駅前を歩いていたらボクシングジムが目に飛び込んできました。ジムはガラス張り、外からスパーリングしている姿が見えるわけです。そのまま導かれるように中に入り、入会しました(笑)。最初は役者としての体力づくりのためでしたが、ある日、ジムでアマチュア選手同士のスパーリング大会があり、そこに参加して勝ってしまったのです。その後、出場するたびに勝利を重ねていると、自然に「プロライセンスを取得しないか」という話になり、軽いノリでライセンスを取得しました。

—— 入門して1年もたっていないのに、プロライセンスを取得したのですね。プロボクサーと役者の二刀流ですね。プロデビュー戦はどうでしたか?

中村 役者としての舞台出演とプロデビュー戦が、前後二週間というスパンで重なりました。ボクシングの練習を終えて、役者の稽古に行くという過密スケジュールでしたが、プロデビュー戦は1ラウンドKO勝利を収めました。そこで「なんだ、こんなものか」と思ってしまったのです。ここから僕の「勘違い」が始まるわけです。

—— 圧倒的な勝利により、ジムの入寮許可を得たと聞いています。入寮できるボクサーはチャンピオンレベルの将来性がある選手だけだったそうですね。一流のメンバーの仲間入りをして、役者からボクサーへ転身したのですか。

中村 寮に移ってからも、しばらくは役者を継続していました。しかし、チャンピオン級のメンバーと一緒に暮らし、ボクサーとしての環境にも恵まれ、「自分もチャンピオンになれる」と思い込んでしまいました。1997年24歳の時、この「勘違い」から役者を辞めて、プロボクサーとしての道を本格的に歩むことになりました。年齢的には「遅咲き」ですね。

—— トントン拍子に、ボクシングエリートへのレールに乗りました。その後はどうでしたか?

中村 実は、デビュー戦勝利後に、気の緩みから打ち上げで好きなだけ飲んで食べた結果、リバウンドで10キロ増えてしまいました。10月のデビュー戦は50.8キロのフライ級でしたが、年末の入寮時には生まれて初めて60キロになっていました。期待され、これから本格的な始動にも関わらず、減量苦に悩まされるボクシング人生がスタートしました。1998年2月に2戦目の試合が組まれました。しかし、10キロの減量はもう地獄で、なんとかフライ級の50.8キロに戻しましたが、もうフラフラです。そんな状態ですから、何の力も発揮できずに敗北しました。寮には鉄のおきてがあって、2回負けると追い出されるのです。入寮したばかりなのに、もう1勝1敗になり、1敗も許されない状況になってしまいました。その後は、3~4カ月に1回のスパンで行われる試合に本気で取り組み、連勝を重ねましたが、2年ももたずに2敗目を喫し、誰かに言われたわけではないのですが、暗黙のおきてに従い、自ら寮を去りました。

—— 引退はいつごろだったのでしょうか?

中村 29歳の時です。減量に苦しみ続け、質の良い練習ではなく体重を落とすことだけに意識が向いていました。最終的には3階級上のバンタム級に変更しましたがそれでも苦しみました。そして「30歳までに」と、心のどこかで区切りを探していたのかもしれません。ボクシングのモチベーションよりも次のビジョンに気持ちが傾き、辞める理由を探している自分の心の弱さに気付いたことで引退を決意しました。
写真:中村氏提供 1999年26歳のときの試合
写真:中村氏提供 1999年26歳のときの試合
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