元柔道選手 菊池教泰氏 セカンドキャリアインタビュー(2)

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2020.9.28

「感情の力」の重要性 ~目標とゴールの違い~

—— ここからは菊池さんの柔道家時代についてお聞かせください。

菊池 私は目標に向かいながら、やり方を開発していくという「インベント オン ザ ウェイ」を、高校時代と大学時代に柔道を通して体感しています。小学校、中学校まで地方大会1回戦負けの選手でしたが、高校では北海道で一番を目指す学校に入り、北海道で一番になりました。大学では日本一を目指す大学に行き、日本一になりました。面白いことに、小中・高校・大学の各時代の柔道スタイルは、まるで別人のスタイルになっています。それぞれの時代の目標に合わせて、自身の無意識がその都度の柔道スタイルを開発したのです。
ではなぜ、「インベント オン ザ ウェイ」を起こすことができたのか。それは、目標を達成したいという「強い感情」があったから。今まで何度か「目標」という言葉をこのインタビューで使ってきましたが、実は、認知科学に基づくコーチングでは、「ゴール」という言葉を使います。辞書で「目標」と「ゴール」の違いを調べても、ほぼ同じような意味になるかと思います。しかし、認知科学に基づくコーチングでは、「目標」と「ゴール」という言葉を明確に分けています。その違いは「目標に強い感情が乗っているもの」が「ゴール」なのです。「ゴール」になると、何としてでも達成したい!というような「強い渇望感」が生まれます。それによって、何とかしてゴールを達成しようとして新たな手段や方法を開発することで、結果としてイノベーションが起こるのです。

—— 「インベント オン ザ ウェイ」の具体的なエピソードを教えてください。

菊池 高校時代は2年生の半ばくらいまで強くもならず、結果も出せずにいました。そんな日々が続いていたある日、下宿暮らしをさせてくれている親にこのまま結果を出さないのは申し訳ないという「強い感情」がふと心の内から沸き上がり、日に日に強まっていきました。そこでひらめいたのが「自分の柔道を理論化したい」という思いでした。そこから、親のためにも柔道で結果を出すというゴールを達成するために、うまくできたこと、できなかったことを分析して稽古に臨むようにしたのです。その結果、急激に強くなりました。後に聞いた話ですが、ライバル校も私の急激な活躍には心底驚いていたということでした(笑)

—— なるほど。大学の時の「インベント オン ザ ウェイ」の話もぜひ。

菊池 大学の時は、けがの繰り返しで1年ほど満足に稽古ができず、腐っていた時期がありました。もう大学を辞めようなどと、思い悩んでもいました。そんな状況の中で、昔好きだった女性と半年後に会うことになり、今の腐っている自分を見せられないという「強い感情」が沸き上がりました。その結果、腐らずに活躍して結果を出すというゴールに向けて、三つの手段を開発しました。詳細は省きますが、①けがをするのは筋力的に弱いためであり稽古後のトレーニングで筋力向上を図ること、②一流選手特有の、技に入る際に力を抜く技術を習得すること、③試合で力を発揮できないのは精神的に弱いためでありメンタルトレーニングを勉強して試合で実力が発揮できるようにすること。これが合わさって日本一になりました。

—— 強くなりたい時はスキルやツールに走りがちですが、菊池さんは身近な人をきっかけにした強い感情が「ゴール」となり、「インベント オン ザ ウェイ」を引き出したのですね。結果、学生時代は団体戦で日本一になりました。特に決勝では菊池さんの活躍で見事日本一を決め、個人戦でも国際大会優勝と輝かしい戦績につながりました。

菊池 毎日どうすれば強くなれるのかと、目的や課題を考え練習に取り組みました。大学時代は元世界チャンピオンである一流の恩師から、しっかり組む柔道の型を教わり、それをさらに自分でアレンジして工夫する。その積み重ねで柔道スタイルを進化させ、結果がついてきました。私には超一流といわれる選手が持ち合わせているセンスはありませんので、とにかく強い感情を乗せて考えぬくことで強くなれた選手だったと思います。 
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写真:菊池氏提供(2000年、中央大学柔道部が24年ぶり日本一を決定したシーン)
—— 2002年に実業団柔道の名門JRA(日本中央競馬会)に就職されましたが、実業団時代についてお聞かせください。

菊池 JRAでは、週の半分は配属された本部の人事部で業務、週末は全国の競馬場などに出張職員として勤務するという特殊な勤務形態でした。柔道の練習は朝と夜に行い、昼は仕事という日々でした。柔道採用は各年代ほぼ1人しかいないため、いろいろな大学に行って練習していました。

—— 仕事内容を教えてもらえますか?

菊池 最初は人事部に配属となりました。職員の福利厚生を主に担当していましたが、人事の業務自体が面白いと感じ、とても興味を持ちました、現在の仕事の原点といえます。JRAはジョブローテーション制度があり、3年目からは警備系の部署に異動となりました。
一般採用の職員たちと一緒に新人研修があり、きちんと学べました。一般的なマナー研修はもちろん、競馬を運営する企業なので、乗馬の研修もありました。すぐ取れる資格ではありますが、一応乗馬ライセンス5級を持っています。私の体重が重いせいで、馬がたくさん汗をかき、とてもかわいそうだったことが印象に残っています(笑)
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写真:菊池氏提供(研修で、馬に乗る菊池氏)
—— 仕事上の上司も柔道関係者だったのですか?

菊池 いいえ、上司は柔道とは関係ありませんでした。社会人1年目の私の提案にも真摯(しんし)に向き合ってくださり、仕事を任せてくれました。今でも尊敬している方です。疑問があるといつでも相談でき、仕事上の不安を解消してくれました。

—— 実業団の柔道選手としてのキャリアはいかがでしたか。

菊池 けがも重なり、思うような結果が残せませんでした。選手として結果を出せなかった理由はいくつかありますが、一つはけがです。大学4年の最後の試合で、膝の前十字靱帯(じんたい)断裂、内側側副靱帯損傷、半月板損傷の三つを一度に同時受傷(アンハッピー・トライアド)してしまいました。その影響で、元々受けが強くて投げられないことが特徴だったのですが、ふんばりが効かなくなり、ポンポン投げられるようになってしまい、また得意技だった大内刈りを決めきれなくなった。こうすれば技がかかると分かっているのに、膝がそこまで曲がらないという状況になってしまいました。

—— けがの影響が大きかったのですね。学生時代と比較して、ご自身の脳と心の面での違いはありましたか?

菊池 JRAの柔道部は、各年代で1人しか採用されない狭き門。かつては、小川直也さんや瀧本誠さんが在籍し、近年ではベイカー茉秋さんなども所属するエリート実業団です。私の最大の失敗は、このようなエリート実業団に入れたことで満足してしまい「ゴールを失ったこと」に尽きます。ゴールがなくなり「現状の最適化」を目指すようになり、学生時代の柔道スタイルにこだわってしまいました。かなうかなわないは置いておいて、自身の可能性を最大化するという観点からは、「はるかなゴール」が必要だったのです。
例えば、全日本優勝や世界チャンピオンというのがこれにあたりますが、はるかなゴール設定がなかったことで、「インベント オン ザ ウェイ」が働かず、結果も出なかったのだと思っています。はるかなゴールとは、「夢」という言葉に置き換えてもよいです。だから、CSR活動として行っている青少年(小~大学生)向けの講演では、自身を反面教師として「夢を持つ大切さ」を伝えるようにしています。自身の可能性は、はるかなゴールがない限り、顕在化されません。この科学技術が発達した現代においても、自身がどこまでいけるのか、わからないわけですから。本人の潜在的な力が眠ったままでは、本人にとっても世の中にとっても不幸なことです。その思いは伝えるようにしています。 
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