レジリエンス

震災が起きたあのとき、MRIは。【前編】

レジリエンス実現に向けた“防災”を目指す、2人の研究員の記録
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地震予測が専門にも関わらず、何もできなかった無力さ

池田 東日本大震災が発生したのは、私が中学生の頃でした。この震災から衝撃を受け、地球科学を専攻することや、企業で防災に取り組むことを決めました。偶然にも、入社直前に読んだのは堤さんのコラム(※)でしたし、今日は直接お話しできることを楽しみにしていました。伊藤さんはいかがでしたか?
伊藤 東日本大震災はちょうど高校卒業のタイミングでした。震災は私に大きな影響を与え、大学院では防災から考える国際開発を学ぶことにつながりました。

さっそくですが、堤さんから、防災事業に携わるようになった経緯をお話しいただけますか。
堤 四国出身なので、子どもの頃は昭和南海地震や近所を横断する中央構造線(活断層)についてよく話を聞かされていました。それをきっかけに興味を抱き、グローバルなプレートテクトニクスや地震予測について学ぶようになったのですが、入社直前の1995年1月、阪神・淡路大震災が発生したのです。自分自身が専門的に学んでいましたが、これほどの大地震が起きるとは思いませんでした。
堤本部長
池田 専門的に学んでいても、まさかという思いがあったのですね。
堤 ええ、大学時代に住んでいた神戸市東灘区のアパートは全壊し、知り合いも何人か亡くなりました。防災を研究し、神戸・六甲山で活断層の動きを観測していたにも関わらず、あれほどの大きな地震が起きることを前もって伝えることができなかった、無力さを感じました。
伊藤 MRI入社後は、すぐに防災事業に携わられたのですか?
堤 研修後に首都直下地震の被害想定を扱う部署に配属されました。もともとMRIは昭和年代から防災事業を手がけていましたが、震災直後ということもあり、寝る間もないほどバタバタでしたね。新人でもどんどん仕事を振られ、先輩の指導を受けながらも、業務をリードするような場面もあって、ようやく自分の学んできたことが仕事に結びつけられたという実感があり、やりがいは大きかったです。

まさに想定外の事態が発生した福島第一原発。無力感に苛まれながら、推移を見守る日々

池田 船曳さんは東日本大震災・原発事故の発生後、長らく福島復興事業を担当されておられたそうですね。震災発生時はどのような状況でしたか。
船曳 永田町オフィスにいたのですが、人生で初めて机の下に避難しました。当初、福島第一原子力発電所(以降、1F)は地震動を検知して自動停止するから問題ないだろうと思っていたのですが、夕方になって原子力災害対策特別措置法10条・15条通報があったことを知り、「なぜ!?」と驚きました。その後、津波により全電源喪失、注水不能状態にあることを知り、極めてまずいと思いました。19時頃に緊急事態宣言、21時頃には3km圏内に避難指示が発令され、その日は会社に泊まって事態の推移を注視することにしました。冷却機能を失った炉内の温度や圧力が高まり、炉心が溶融するリスクが刻一刻と高まる状況を固唾を呑んで見守っていました。翌日午後に1号機が水素爆発で大破。さらに3号機、4号機も相次いで水素爆発するという未曾有の事態となりました。
船曳研究員
池田 それまでの常識では考えられないことが起きたのですね。
船曳 そうですね。しかし、その後は事故対応でできることもなく、無力感に苛まれる日々。「いったい自分は何をしているのだ」「これまでやってきたことは何だったのか」と茫然自失の状態でした。福島も、事業者も、自分も、そして日本も、すべてが崩壊したと思いました。私だけでなく、原発に関わったさまざまな人が同じような思いを抱いていたのではないかと思いました。親しい関係者の方にようやく連絡が取れたとき、泣きながら福島の惨状を話していました。私も泣けてきました。
池田 その後、1F事故対応や福島復興に関わる検証・提言に取り組まれたそうですが、重責・プレッシャーに加え、今まで誰もやったことがない事業に取り組む不安があったのではないでしょうか?
船曳 不安やつらさよりも、「やるしかない」という使命感が大きかったですね。誰もがどうしてよいかわからない状況のなか、それをなんとかするのがMRIだと強く思っていました。「火事場に強いMRI」、「誰もやっていないことをやるMRI」でありたいと思って事業にあたっていました。

現地でしかわからないこと、気付けないこと。提言が机上の空論にならないために、現場を訪れるべき

池田 堤さんは東日本震災発生時、どのように過ごされていましたか?
堤 たまたま私用で横浜の小学校にいたのですが、避難した校庭で地面がゴムまりのように弾む感覚があったのを覚えています。通信はつながっていたので同僚にすぐ連絡して、自宅までの距離20kmを歩いて帰宅しながら動画記録を残すようお願いしました。このときの帰宅困難者の映像・画像はNHKの報道番組などでも使われていますし、自分たちが作成したシミュレーション検証にも役立ちました。また、被災地の三陸地方に行く許可が下りるまでの間、行けるところだけでも行こうと考え、数日後には液状化現象を確認しに浦安に向かいました。職業柄か、どうしても記録に残したい気持ちがあります。それは私だけでなくMRI全体にも同じ傾向があるのではないでしょうか。
東日本大震災発生当日、帰宅困難者であふれる都内の様子
東日本大震災発生当日、都内は帰宅困難者であふれていた。
撮影:三菱総合研究所
伊藤 現地に向かう大切さとは、どんな点でしょうか。
堤 ただ記録を取るだけでなく、映像・写真には残らない体感を得られること。例えば浦安を訪れた際は砂ぼこりがとても多く、目や耳に入りました。地表が浮き上がっている様子は写真に残りますが、砂ぼこりが多いという事実はなかなか映像でも残りにくい。でもそれを実体験することで、そこで生活せざるを得ない人の困りごとが理解できるようになる。そんな現実は、現地に行かないとわからないと思います。
東日本大震災発生の数日後に訪れた浦安にて
東日本大震災発生の数日後に訪れた浦安にて
撮影:三菱総合研究所
池田 船曳さんは現地で初めて知ったこと、感じたことなどはありましたか?
船曳 1F事故対応の最前線拠点となっていたJヴィレッジに何度も足を運びました。当時のJヴィレッジは、あらゆる作業員や車両、資材が出入りする、戦場さながらの場所でした。MRIはシンクタンクだから、情報やデータさえあれば仕事ができるのではと思われがちですが、現場に全く行かずに仕事ができるかというと、多分できません。堤さんも言うように、現地に行かなければわからないことが山ほどある。例えば、避難区域の設定ひとつとっても、区域の境界線をまたぐ隣家同士で賠償金が大きく変わってしまいます。そのような実態を現地で直接見て、現地の方からお話を聞くことで、東京からは見えなかった真実や本質が身に迫ってくる。現地に足を運び、住民の方々と話をすることが私たちの原点だと改めて認識しました。
堤 今ある現場は、将来の現場でもある。現場がどう変化していくか、被災しないようするにはどうしたらいいのかなど思い巡らせることは、研究員として忘れてはいけない感覚でしょう。

WILLを持って、いまだ無き道を整え、災害犠牲者ゼロの未来を創りたい

伊藤 東日本大震災の際、堤さんは三陸地方にも向かわれたとか。
伊藤研究員
堤 ちょうど震災1カ月後に被災地を巡りました。入社以来、津波防災に関する調査に従事していて、1995年には津波防災対策推進調査(当時の国土庁委託)で北海道~三陸地方を巡ったこともあります。明治・昭和の三陸大津波とチリ地震津波を経験してきた三陸地方の防災意識は高く、津波防災対策にも積極的だったことを知っていただけに震災後の変わりように愕然としましたし、考えるべき対策の次元を根本から見直すべきと思いました。
池田 どのような意図で被災地を巡ったのですか?
堤 津波対策先進地域である三陸地方がなぜ東日本大震災で大被害を受けたのか、その課題・教訓を踏まえて新たな防災のあり方を再検討したかったのです。自衛隊ががれきの中からご遺体を捜索している最中の状況を目の当たりにしながら、経済を含めて必ずや復興しなければと気持ちを奮い立たせて仕事にあたりました。社内でも議論を重ね、防災提言をまとめたり、自主研究の形でパートナーと一緒にニュースリリース発信(※)や取材対応をしたりするなど、できることをひとつずつ進めていきました。
池田 MRIでは、よく「WILLを持とう」と言われますが、その言葉通り「WILL」を抱きながら仕事に挑んでいたのですね。そのモチベーションはどこから生まれましたか?
池田研究員
堤 モチベーションをどうやって生み出すかではなく、モチベーションしかなかった。世の中にないものを築き上げていく意義や、今後の日本の防災力を高めていくことに貢献できるという思いがあり、とにかく諦めるわけにはいかなかった。仕事でご一緒した東京都や東京消防庁の方々、大学の先生方など、多岐にわたる関係者が「防災」という目標を共有しながら、将来的には「地震を予測する」「災害によって犠牲者ゼロを達成する社会」を構築しようと、対等な立場でともに取り組んでいました。
伊藤 災害発生によって、防災事業が拡大した側面もあるのでしょうか。
堤 MRIに限らず、社会的に防災・災害関連の仕事が増えましたが、私たちとしては事業拡大以上にデータを蓄積できる点が大きかった。

それこそ、私が入社したばかりの阪神・淡路大震災の頃はどのように被害想定するかのセオリーがなかったため、図書館や社内の資料室で統計を集めデジタルデータに変換したり、自治体からデータをFAXで送ってもらったり、学会に足を運ぶなどして、地道にデータを収集・分析するところから始めました。そうして被害状況を分析、被害関数を作成し、被害想定手法を先輩とともに積み上げていったのです。

この収録は2023年7月に行われました。2024年1月の能登半島地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞いを申し上げます。

PROFILEプロフィール

インタビューアー

  • 社会インフラ事業本部 リスクマネジメントグループ
    官公庁や民間企業のお客さまに対して、防災・危機管理や気候変動適応に関するコンサルティング・政策提言支援を行っています。リスクに対する適切な理解と対策検討の支援を通じて、お客さまの価値を一層高めることを目指しています。
  • 社会インフラ事業本部 リスクマネジメントグループ
    官公庁や民間企業のお客さまに対して防災・減災、産業安全を軸に、調査研究・コンサルティング・提言策定支援を行っています。産業化・ビジネス化の観点を含めた課題解決を図っていくための自社事業開発にも取り組んでいます。

インタビューイー

  • 社会インフラ事業本部長
    国・自治体の地震被害想定をはじめとした防災・危機管理、リスク評価に基づくコンサルティング、民間企業の事業継続/レジリエンス戦略検討をご支援してきました。社会や企業経営の課題解決に向けてお客さまと一緒に議論しながら真摯に取り組んでいきます。
  • 社会インフラ事業本部 リスクマネジメントグループリーダー
    長らく原子力事業やリスクコミュニケーションに関する調査・コンサルティングを行ってきましたが、東日本大震災後は福島復興事業に8年間、従事しました。現在は当社の防災・レジリエンス、産業リスクマネジメントに関する事業全般を担当しています。

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