元プロサッカー選手 長谷川太郎氏 セカンドキャリアインタビュー

引退後も自己肯定感を継続させるポイントは「世の中のために役立つ」こと
浮き沈みの激しい選手時代、35歳でのビジネスパーソン1年目の挫折、やっと見つけた自分の居場所

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2020.9.3
高校生でJリーグデビューを果たし、2005年にJ2で日本人ではトップとなる17得点をあげる活躍をしたものの、3度も解雇され、最後はインドでプロサッカー選手人生に幕を下ろした。35歳でビジネスパーソンとなった1年目はマインドチェンジができずに挫折を味わう。自分で企画した引退試合で現役に区切りをつけ、ストライカー育成専門のアカデミーを主催する一般社団法人TRE(トレ)を起業。浮き沈みが激しかった現役時代、会社員時代、そして起業まで。長谷川太郎氏の半生を振り返りながら、セカンドキャリアの成功のポイントは何かを探る。

得点王にもなったストライカーは3度クビを経験した

—— 長谷川さんの選手としてのキャリアからお話を伺っていきたいと思います。まずJリーグのトップチームに昇格するまでの経歴を教えてください。

長谷川 東京都足立区出身で、小学生の時、FC千住イーグルスに入り全国ミニサッカー大会(JFAバーモントカップ)で2位になりました。これで自信を得て、柏レイソルジュニアユースに入ることができました。そして、1998年18歳の時に柏レイソルのトップチームに昇格し、高校生でJリーグデビューしました。

—— 18歳でJリーガーになられたとき、ポジションは点を取る役目のストライカーでしたね。

長谷川 1999年のJリーグヤマザキナビスコカップ(現JリーグYBCルヴァンカップ)で得点を挙げ優勝に貢献しました。その後はけがで出場できない時期もありましたが、2001年に出場機会を得た試合で、引退後の活動にも結びつく出来事がありました。

—— サッカー選手としての人生に影響を与える大きな出来事ですね。それは?

長谷川 ゴール前でキーパーと一対一となり、得点すればVゴール(延長戦の間に一方のチームが得点した場合、試合を打ち切りその得点を入れたチームを勝者とするサドンデス方式、ゴールデンゴールのこと)になるという場面で、シュートを外してしまったのです。たった1本のゴールが決められなかったことでチームからの信用を失いました。その結果、2002年は出場機会が減り、試合に出るためにJ2のアルビレックス新潟に期限付き移籍(レンタル移籍)をしましたが、新潟でも結果を残せず、シーズン終了後に柏レイソルとアルビレックス新潟の両チームからダブルアウト(解雇)されてしまいました。

—— かなりシビアですね。23歳の若さなら、その後のチャンスもあったのではないでしょうか。

長谷川 Jリーグのトライアウト(戦力外通告された選手を対象とした入団テスト)に参加し、ヴァンフォーレ甲府と水戸ホーリーホックからオファーをいただき、2003年にヴァンフォーレ甲府に一年契約で入団しました。しかし、入団して4カ月後にけがをしてしまい4試合に出場できただけでした。2004年は半年で結果を出さなければ解雇される半年契約となりました。当時チームはJ2の最下位争いをしており、結果を残さなければJリーグ選手として次はないという状況の中での半年間でした。

—— まさに崖っぷちの状況と言えると思いますが。

長谷川 そんなときに、自分と同年代で、柏レイソル時代にチームメンバーだった玉田圭司選手のことを思い浮かべて、自分と対比してみました。柏レイソルの時は、私は常に試合に出場していましたが、玉田選手は控え選手でした。しかし、その5年後、玉田選手は日本代表としてドイツW杯ブラジル戦でゴールを決めるなど活躍を見せたのに対し、自分はJ2最下位争いをしているチームで控え選手になっていました。この差は何であろうと考え、シュートは自分が良いが、ここは彼が優れていると紙に書き出していきました。
そうすると、決定的に私のほうが劣っていることがわかりました。玉田選手は、監督が何と言おうが、自分のプレースタイルを貫いていたのです。一方、私は試合に出るために、監督の顔色をうかがいながらプレーをしていたため、監督が変わるたびに自分の築き上げたことがゼロクリアされていることに気づいたのです。その時に改めて、自分のプレーのどこに強みがあるか、客観的に見つめなければいけないと思ったのです。不思議なことに、それ以降、活躍できるようになっていきました。

—— 自分を見つめ直し準備してきたことが結果に結びついたのですね。

長谷川 ゴールを決められずクビになった人間が、今度はゴールを決めることで契約が延びたのです。次の年(2005年)には、J2で日本人トップとなる得点をあげました。しかもJ1とJ2の入れ替え戦で古巣の柏レイソルに勝利し、チームもJ1昇格を果たしました。今度は人生が好転する経験を味わったのです。

—— ストライカーとして開花したということですね。その後はどうだったのですか?

長谷川 J1に昇格したヴァンフォーレ甲府の一員として契約が継続しました。2008年は横浜FCに移籍し、このチームで多大なる影響を受けることになる三浦知良選手と出会いました。

—— 長谷川さんは引退後も三浦選手主催のグアム合宿に参加されるほどの仲ですね。

長谷川 ただ、横浜FCでは結果を残せず、戦力外通告を受けました。人生2度目のトライアウトに参加し、2009年はJFL(日本フットボールリーグ:企業チーム、Jリーグ入会を目指すクラブ、地域のアマチュアクラブなどが参加するリーグ)の北九州のチームに移籍。得点を量産し、J2入りに貢献することができました。翌年もそのチームで28試合出場し、ある程度結果を出したにも関わらず解雇となりとても悔しい思いをしました。そして3度目のトライアウトを受けることになります。

—— 今回は結果を出したにも関わらず解雇されたという、これまでとは違う理由でトライアウトを受けることになったのですね。

長谷川 この時、タイのプロチームからオファーをいただいたのですが、もう一度Jリーグでプレーをしたいという気持ちが強く、国内にとどまりました。2011年は千葉県リーグの浦安ジュニア・サッカークラブに入団。浦安では2013年シーズンまで指導者兼務でプレーしました。ここで、子どもたちに教えるという醍醐味を経験しました。

—— 現在のチーム名、ブリオベッカ浦安の草創期メンバーとして活動されたのですね。そして、翌年の2014年に引退されていますが、きっかけは何だったのでしょうか?

長谷川 今まで自分を応援してくれていた家族の目が気になりだしました。浦安のチームは県リーグ・関東リーグに所属しており、選手としてもらっていた給料では生活ができなかったため、私の実家に経済的な面倒をみてもらっていたのです。浦安のチームには3年間所属しましたが、次年度契約時に、今まで応援してくれていた身内の「まだやるのか」という雰囲気が伝わってきました。当時は、生計が立てられなくても、自分はサッカーができる環境にいて、応援してくれる人がいればプロサッカー選手であり続けても良いのではないかと思っていました。しかし、今まで一番身近で応援してくれていた人たちの応援を受けられなくなった状態ではプロとは言えないのではないか。そう感じたのが一番の引退の決め手です。

—— それは非常につらい決断ですね。

長谷川 引退をしようと思った2013年シーズンを終えて迎えた年末、浦安のコーチとして子どもたちに指導をする機会がありました。そこで、子どもたちに「夢をもってやらなければダメだよ」と言った自分の言葉に違和感を生じたのです。自分が納得して辞めようと決意したわけではなかったからです。サッカー選手として悔いなく終われるのか、何かまだやり残していると思っているのに辞めるのか。そんな自問自答している人がこんなことをよく言えるなと恥ずかしくなりました。ただ既に35歳だったのでJリーグのチームに加入するのは厳しい状況でした。
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写真:ブリオベッカ浦安・長谷川氏より提供
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