元プロサッカー選手 長谷川太郎氏 セカンドキャリアインタビュー(2)

引退アスリートのキャリア成功の鍵

2020.9.3

マインドチェンジするためには区切りをつける「引退試合」が重要

—— 長谷川さんにとって、2014年はサッカー選手としてピリオドを打つための年だったのですね。

長谷川 はい。海外でプレーをするという夢もあったので、最後にもうひとつチャレンジしようと決め、以前オファーをいただいたタイに行くことを考えました。

—— 国内ではなく海外に活路を見いだしたのですね。

長谷川 オファーがあったのはタイのチェンマイ近隣のチームでした。しかし、友人を介してインドのチームからもオファーをもらうことができました。ただインドに来てもらわないと契約ができるかわからないとも言われました。
タイかインドか悩みましたが、真剣に考えてインドを選びました。シーズン途中からだったので、3カ月間という短期契約でした。家族からタイ以外の海外でのプレーを反対されていましたが、短期であれば了承を得られるだろうという思いでインドでのプレーを決めました。
—— その結果、2014年はインド・Iリーグ1部のモハメダンSCでプレーをしたのですね。

長谷川 はい。完全燃焼するつもりで、インドでプレーをしました。良い結果でシーズンを終えることができ、来季のオファーもいただきました。ミャンマーのチームからもオファーがあり、まだ現役を続行できるのではないかという思いもありましたが、さすがに自分の実家に妻と子ども二人を置いてわがままばかりも言えないと自覚し引退を決断しました。

—— 完全燃焼するつもりで、異国でプレーをし、結果認められ来季のオファーを獲得できれば欲は出ると思います。家族の問題などもあったと思いますが、このような形で本当に踏ん切りは付けられたのですか。

長谷川 インドを最後に引退発表し、アルバイト、就職、起業としていくわけですが、どこかにまだ、サッカー選手としての迷いがありました。ブリオベッカ浦安から、選手として戻ってこないかというオファーもあり心が揺れた時もありました。後には、起業をして貯金が底をつきそうになったときに、またサッカー選手に戻れればと考えたこともありました。しかし、この中途半端な姿勢に区切りをつけなければ、新しいキャリアはつくれないと思い、2015年10月4日に引退試合を自分でプロデュースしました。
「長谷川太郎引退&浦安レジェンドOBマッチ」という名称で、自分から仲間に声をかけて実施しました。浦安市陸上競技場に2,500人もの観客やファンの皆さんが集まってくださり満員になりました。これで選手に戻るという甘い気持ちを断ち切り、新しい道を歩むための区切りづくりができました。引退試合をすることで、サッカー選手には戻れなくなり、新しい自分で前を向くしかなくなりました。以降、迷いなく、新しい道に力を注げるようになりました。

—— 卒業式は新しい道のスタートとも言います。次に意識を向けるためには、門出は必要ですね。

長谷川 区切りがない中で会社に就職すると、現役時代の変なプライドが見えてしまうでしょう。根性がありそうなので入社させたのに、プライドを捨て切れないので、逆に根性がないと思われる。元選手だから何でも頑張れると思っていたのに変なプライドが邪魔をして会社員として頑張り切れない。そして自己嫌悪に陥り、会社を辞めていく。自分も経験をしましたが、アスリートはマインドチェンジがなかなかできないのです。

—— プロ選手とまでなったアスリートは、キャリアチェンジしたとき、やるべきことが明確になれば強いのですが、そこが不安定であるとモロいと聞きます。

長谷川 自分が経験をしたように、引退時に選手としての区切りをつける場があることが大事であると感じました。しかし、Jリーグでは通常500試合出場し球団側も功労者として認めなければ引退試合を実施してくれません。そうでない選手であっても、引退試合をしてファンへあいさつする場はあった方が良い。そこで、「アスリートの1.5キャリアを応援するプロジェクト(通称:サポーツマン)」を発足させました。
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写真:長谷川氏提供
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