コラム

カーボンニュートラル時代の原子力エネルギー・サステナビリティ・食農

チェルノブイリ事故の燃料溶融物(FCM)の現状|前編

福島第一原子力発電所事故後の原子力

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2020.2.26

原子力安全事業本部石川秀高

カーボンニュートラル時代の原子力
チェルノブイリ原子力発電所4号炉の事故は、34年前の1986年4月に発生しました。日本では、チェルノブイリ事故に関する炉内の状況や環境への影響など多分野にわたる研究を13~14年前まで精力的に実施していました。事故炉は一部で実施された構造強化や補修以外は手が加えられていないので、現在の内部の状況は基本的に事故当時から大きく変わっていません。

本コラムの前編では、当時の事故の様子、シェルターの建設、シェルター内の様子などを概観します。また、後編では事故時に溶融した燃料や構造物によって作られた燃料含有物質(以後FCM※1)の状況について整理を行います。また、福島第一原子力発電所事故による燃料デブリと比較し、燃料デブリの状況把握や今後の取り出しに向けた取り組みに参考となる事柄をまとめます。

1.チェルノブイリ事故の概要 

1.1 キエフの北西に位置するチェルノブイリ 

事故発生時、ウクライナは旧ソ連邦の共和国でしたが、1991年の旧ソ連崩壊と共に独立しました。北はロシア、ベラルーシ、西はポーランドに接し、南は黒海に面しており、日本の1.6倍ほどの面積をもつ国です。西部や南部の一部の高地以外は、広大な平地が広がっています。その首都キエフから北西へ、のどかな農村、牧草地、森林地帯がどこまでも続いている中を約140km行くと、チェルノブイリ原子力発電所4号炉の事故により設定された30km圏に入るゲートが現れます。
図1 2003年当時の30km圏ゲート
図1 2003年当時の30km圏ゲート
出所:筆者撮影

1.2 チェルノブイリ事故時の概要

チェルノブイリ事故は4号炉で発生しましたが、現在は1~4号炉すべてで運転が停止され廃止措置が進められています。事故当時、5~6号炉が建設中でしたがこちらも中止されました。

チェルノブイリ原子力発電所は黒鉛減速・水冷却チャンネル型炉(RBMK)といわれる旧ソ連特有のもので、日本の主流である軽水炉とは基本的に設計が異なります。日本の原子力発電所にあるような圧力容器とは異なる「原子炉室」があり、圧力容器を覆う格納容器は存在していません。事故時のプラント内での事故影響緩和や事故拡大防止などの安全系の考え方も大きく異なります。

事故の原因は、運転停止操作後にタービンが慣性で動いていることを利用して、ある試験を実施したことに端を発します。大きな反応度(核分裂連鎖反応の度合い)が急激に炉心に加わり、炉が暴走したことで事故が発生し、過酷事故に発展しました。炉心では装荷してある燃料が溶融し、原子炉室上部で大きな蒸気爆発が発生し、そのため1600トンもある上げ蓋が飛び上がり半回転して落ち、斜めに引っかかりました。また炉内では局所的な水素爆発も発生したという解析もされています。

1.3 炉心の事故前と事故後

炉心の構造は、ちょうど、昔各家庭でよく使われた「練炭(れんたん)」のような形状になっています。
炭にあたるものは減速材で、実際には径が40㎝、高さ60㎝くらいの黒鉛ブロックが積み重ねられています。練炭の穴の部分に1本1本圧力管が入れられ(計1661本、外径88mm)、この中に核分裂で熱を発生する丸型の燃料集合体が上下各1体入っています。

炉心を埋め尽くしていた大量の黒鉛ブロックは、事故により原子炉の上部や外部に飛び散り、炉心下部にはわずかに残るのみで中心部は空洞になっています。なお、黒鉛からなる鉛筆の芯を火であぶっても燃えませんが、種火的なものがあると黒鉛も燃焼するという現象も知られており、事故時に黒鉛ブロックの多くは燃焼したという説もあります(図2)。
図2 事故後の断面図
図2 事故後の断面図
出所:World nuclear association Chernobyl Accident 1986  The damaged Chernobyl unit 4 reactor building Copyright World Nuclear Association(閲覧日:2020年1月28日)
http://www.world-nuclear.org/information-library/safety-and-security/safety-of-plants/chernobyl-accident.aspx

2.シェルターの建設と内部

2.1 事故炉を覆うシェルターの完成

事故に伴い、旧ソ連中の多くの原子力研究者や専門家がウクライナに集まり、事故後の処理についていろいろな検討がなされました。

事故炉は上げ蓋が原子炉室に斜めに引っかかり、しかも格納容器がないため、炉心が外部にオープンになりました。
このため、事故炉全体を覆う構造物を建設することが急務で、事故の約6カ月後の1986年11月には当時石棺(サルコファーガス)と呼ばれたシェルターが完成しました。なお、日本では現在でも「石棺」という言葉が使われますが、国際的にはごく初期にそのように称されていたものの、その後早い段階から「シェルター」と称されています。

シェルターはウクライナ語で「ウクルチエ」と呼ばれ、健全な状態で残った建屋の柱に大きな梁(はり)を置き、そこに屋根や壁を設置した巨大な建造物です。シェルター建設の際、炉内の一部のガレキなどは北側のコンクリートによるカスケード(北側壁面をコンクリートで階段状に構築したもの)の中に閉じ込められました。なお、このシェルターの設計寿命は30年でした。
図3 建設中のシェルター
図3 建設中のシェルター
出所:Mr. Viktor Krasnov (Institute for Safety Problems NPP National Academy of Science of Ukraine) より提供

2.2 事故炉訪問

このシェルターに人が入る際は、事故炉の周りに設置されたフェンス脇の建物で、訪問者も下着だけ残しすべて用意されている衣服に着替え、帽子とヘルメット、さらに特殊に開発された機密性の高いマスクを付ける必要があります。この建物の2階は見学者用の模型やパネルの展示がある展望台となっています。

シェルターには北側のドアから入ります。放射線管理室で個人線量計を受け取り、少し行くと中央制御室が現れます。ここまでは事故後に非常に高い遮へいが施されており被ばくはほとんどありません。中央制御室までは多くの訪問者が訪れています。
図4 シェルター外観(左)とシェルターの中(右)
図4 シェルター外観(左)とシェルターの中(右)
出所:筆者撮影

2.3 事故当時のままのシェルター

入り口から近い中央制御室より先は、事故時の小さなガレキ等は片付けられていますが、基本的に事故当時のままです。保守・点検、また研究・調査する上で必要なところには、はしごがかけられており、各部屋の入り口には除染液が置かれて靴底の汚染を洗い流します。

原子炉室の斜め上側の主循環ポンプ室は特に事故による破壊が大きいところです。シェルターの屋根近辺にあたる原子炉上部は蒸気爆発で飛び散った黒鉛ブロックが多く山積していて線量は高く、登るとすぐに個人線量計のアラームが鳴り続ける状況です。この屋根近辺の外壁は大きな鋼板を貼り付けているだけということもあり、隙間が目立ちます。

シェルター内には事故時に生じた種々のダストが30トンもあると評価されており、それらの舞上がりを抑えるためにスプリンクラーで水を定期的に散布しています。
図5 主循環ポンプ室(左)とスプリンクラー(右)
図5 主循環ポンプ室(左)とスプリンクラー(右)
出所:Mr. Viktor Krasnov (Institute for Safety Problems NPP National Academy of Science of Ukraine) より提供
図6 斜めに引っかかった上げ蓋(左)とシェルター屋根近辺(右)
図6 斜めに引っかかった上げ蓋(左)とシェルター屋根近辺(右)
出所:Mr. Viktor Krasnov (Institute for Safety Problems NPP National Academy of Science of Ukraine) より提供(左)、著者撮影(右)

※1:Fuel Containing Materialsの略。チェルノブイリ事故で原子炉室の下方に落下した燃料や構造物は溶融して固まっている形状をしており、一般的なデブリや瓦礫とは少し違うイメージのため、関係者は「燃料含有物質(FCM)」と呼んでいます。