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DX・GX時代に求められる「地域版人的資本経営」前編

産業構造変化に対応する日本の人材戦略とは

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2022.12.12

政策・経済センター宮下友海

人材

POINT

  • DX・GXを契機とした産業構造変化は、成長領域への個社を超えた人材移動を不可避に。
  • 企業内の人材開発のみにとらわれず、企業を超えた枠組みで人材開発を進めていくことが必要。
  • 産業と研究教育の集積と相互効果を狙い、地域での人的資本経営を進める仕組みの確立を。

DX・GX時代に必要性を増す「地域版人的資本経営」

VUCA時代、企業が経営戦略と人材戦略を連動させ、人的資本投資の活性化を図ることの重要性がこれまでになく高まっていることは、MRIエコノミックレビュー「DX・GX時代の『企業の人的資本投資』のあり方」でも指摘したところだ。しかし、デジタル化によるDXや脱炭素化の進展に伴うGXを契機とした今般の産業構造変化は、個社単位の事業構造転換や人材育成の取り組みの範囲を超える可能性が高い。自動車産業におけるEV化や再生エネルギーへの電源構成の転換などは、個社における人材戦略の再構築という範囲を超え、これまでの基幹産業の衰退と新たな基幹産業の誕生という、産業レベルでの「スクラップ&ビルド」につながることが見込まれる。

こうした状況下、日本全体で人的資本投資を進め、成長領域に向けて人材を育成・移動させていくには、どのような視点が必要となるのか。

今、日本の経済社会の再活性化を期して「人的資本経営」の促進が官民協働で取り組まれ始めている。企業の人材投資を活性化し、経済成長の原動力とするという取り組みだ。「失われた30年」を経て、われわれはこの新たな戦略を着実に進めていく必要がある。

本コラムでは、前・中・後編の3回にわたって、現在進みつつある企業単位での「人的資本経営」を拡張し、個社での対応にとどまらず、社会全体の底上げを促進するための概念として、産業クラスター単位、地域単位での人的資本投資を進める「地域版人的資本経営」の推進を提言する。

提言にあたっては、以前から人材の重要性が叫ばれながら、日本社会で企業を超えた人的資本投資が十分になされてこなかった背景について考察し、これを乗り越えるための枠組みとして「地域」での人的資本投資に注目する理由を示す(前編)。さらにイギリス、ドイツ、スウェーデンの先行事例を取り上げ、地域での人材開発の要点を抽出する(中編)。最後にそれらを踏まえた日本での「地域版人的資本経営」具体化に向けて、主要なステークホルダーが担うべき役割を取りまとめる(後編)。

日本で社会政策として人的投資が進まなかった2つの要因

岸田政権は、その発足からほどなく「新しい資本主義」の実現を掲げ、重点施策として「人への投資」を掲げた。人材投資を通じて人と経済社会の成長を実現しようとするアプローチ自体は、安倍政権、菅政権でも重視されてきた。だが、企業の人材投資も、政府の社会支出に占める人材政策予算も、ともに先進国の中では低調な状態が続いてきた。人的資本投資の必要性が認識されていながら、なぜ十分な投資が実行されないのか。この背景には、労働政策の在り方と人材育成の担い手という、歴史的に形成された相互に関係する構造的問題がある。

①雇用安定を優先した労働政策

日本の労働政策は、高度成長期に確立したと言われる「日本型雇用」に代表されるように、雇用の安定性を重視してきた。大量生産・大量消費を前提とした産業構造では、長期的で安定した雇用は職業能力の持続的向上に有利に働き、品質や生産性の上昇を実現した。

一方で、公的な介入を伴う人材開発政策、労働市場政策は十分な発達を見なかった。政府による市場への介入を好まない米国は別として、主要先進国中でも日本の公的社会支出に占める雇用・労働政策支出の比率は低い。この結果、日本の労働市場は、労働移動を通じた産業構造変化や生産性上昇が促されにくいという特徴を持つに至った。特に、雇用政策、人材開発政策における産業ニーズの吸い上げ不足、産業ニーズと能力開発プログラムを提供する教育プロバイダーの連携の弱さは、現在においても「人への投資」が具体的に進まない大きな原因となっている。

こうした歴史的な経緯は、他の先進諸国で進んだような、地域ごとの産業集積や、地域産業を支える大学など教育研究機関の発展を阻害したと考えられよう。

②個別企業に依存した人材開発

次に挙げられるのが、人材育成を企業が担う構造だ。これは、雇用安定を優先した労働政策とセットになる日本の労働市場の特徴として捉えられる。

「日本型雇用」における企業の能力開発は、「メンバーシップ型雇用」を背景に、ジェネラリスト型人材の育成に重点が置かれた。こうした能力開発の在り方は、企業各社の事情、戦略に合致したスキル形成を労働者に促すという意味では有効であり、キャッチアップ型経済をベースにしていた高度成長期の日本企業に定着していった。

このように企業特殊的な能力開発は、各企業内でのOJTを主力としてなされ、新卒者の採用にあたっても、専門性よりは入社後の教育受容性が重視された。企業依存度の高い能力開発の仕組みは、大学等の教育機関による就業者への能力開発の必要性を低下させ、結果的に「産業界と教育界の連携」を阻害した。そして、自社内で育成の難しいスキル需要が発生した場合には、「中途採用」として少数の人材を外部から調達するという方法が浸透した。
上記のように、高度成長期に成立した雇用の安定を優先し、個別企業に人材開発を依存した日本の労働市場は、バブル経済崩壊後の1990年代以降、キャッチアップ型からイノベーション主導型に転換した経済社会に適応することに失敗する。

企業は収益力の低下に対し、人員の非正規代替や教育研修費用を含む人件費抑制によって生き残りを図った。他方、企業による能力開発投資の後退に対し、公的な職業能力開発支援が準備されたものの、産業界のニーズと必ずしも合致しないプログラム内容であったことや、労働者の認知不足などから十分な人的資本投資を行い得なかったと考えられる。

なぜ地域で人材開発を進めることが必要なのか

経済社会構造がキャッチアップ型からイノベーション主導型に転換するに伴って、「社内で規格化された能力」の開発の有効性は低下していった。冒頭で述べたように、個別の企業が対応しうる範囲を超えた市場環境の変化が見られるようになったためだ。そして、こうした大きな産業構造の変化に対して、社内の人材育成を中心とし、自社育成が困難な人材は少数の中途採用による獲得で人材需要を賄おうとする日本企業のアプローチは手詰まりを見せている。生産年齢人口の減少から、中途採用市場は需要過多となり、企業は必要な人材を質・量ともに満たせなくなってきている※1

結果として発生しているのが、産業構造転換に十分に対応していくだけの質と量を満たす人材が確保できないという「職のミスマッチ」現象だ。一般的に、「人手不足」と言われている現象の多くは、実際には必要なスキルを持った人材が足りないという「職のミスマッチ」であると考えられる。

こうした状況に対して、「外部からの人材調達」で対応しようとする企業は多いが、採用に注力する企業の多くが、新規に獲得できる人材の量と質に満足できていないというのが実態だ(図表1)。
図表1 人材の充足度:いずれの企業規模でも、人材の質・量ともに不足感が強い
人材の充足度:いずれの企業規模でも、人材の質・量ともに不足感が強い
人材の充足度:いずれの企業規模でも、人材の質・量ともに不足感が強い
出所:三菱総合研究所アンケート調査(自社の人材戦略に深く関わりを持つ国内企業勤務のビジネスパーソンを対象にウェブアンケート方式で調査を実施、回答者は1万人)
では、どのように職のミスマッチを解消していくか。ポイントは、「採用」だけではなく、すでに就業している人々に対して、個別の企業が提供できる範囲を超えた「能力開発」を実施していくことと、「労働移動」の活性化だ。産業構造転換の観点から、人材に能力開発投資をし、併せて生産性の低くなった事業領域から成長性のある事業領域に人材を移動させていく必要がある。いわば、「第二の問題:個別企業に依存した人材開発」を乗り越える人材育成スキームを実装し、「第一の問題:雇用安定を優先した労働政策」の転換を促していくことが、職のミスマッチを埋め、企業が生き残る道と言えるだろう。

個々の企業の行動変容や取り組みは確かに重要である。例えば、人材に対する投資に積極的な経営の在り方は「人的資本経営」という形で政府、産業界でも注目を集め始め、特に関心を持ち、実践を始めている企業による「人的資本経営コンソーシアム※2」も設立されたところだ。

ただし、すでに述べたように、日本が今後直面する産業構造の変化は、個社の人的資本投資によって対応しうる範囲には収まらない。個社における人的資本経営の促進は、企業の生存戦略上の必要条件であるが、産業構造転換を乗り越え、社会全体で産業競争力を高め、生産性を上げていくためには、一企業の枠組みを超えた能力開発機会の整備と成長分野への労働移動※3など、マクロでの人材の能力開発と配置の適正化が必要になる。

では、日本の労働市場を一律に流動化させていけば良いのかというと、そう単純ではないはずだ。業種や職種によって、リスキリング(職業能力の再開発・再教育)の必要性や能力開発の内容や方法も異なることが予想される。これら、個別性のある状況を踏まえたうえで、個社を超えたリスキリングの実行と、産業構造変化に応じた労働移動を円滑に進めることが求められる。

こうした問題認識から、われわれは個社を超えたリスキリングや労働移動を促進するにあたり、「地域版人的資本経営」を提唱する。産業政策、能力開発の効率性、個人の職業生活などの観点から、リスキリングに一定の地域的限定性を持たせることにメリットがあると考えられるからだ。ここでは、人的資本経営を地域単位で進めていくことを推奨する理由を以下の3つの視点に整理した。

①産業集積の担い手としての地域

産業集積を実現し、一国を代表してグローバル市場で成長していく力を持つためには、産業の種別は問わず、一定の企業、労働者の地域集積が必要になると考えられる。ある特定領域の産業が、地域的な集積抜きで付加価値生産性と雇用ボリュームの双方を満たす産業モデルの成立は困難だといえる。この点は、米国のシリコンバレーや、ドイツ南部の自動車産業の集積などの成功例を見ると明らかだろう。

②産学連携実現の場としての地域

一定地域での産業集積が進むと、多くの国では、教育研究機関が当該地域において設立され、発展するという過程をたどった。多くの留学生を集めるなど、研究と教育力においてグローバルレベルで競争力を持つ教育研究機関が、地域の産業や行政と密接に結びついて相互に発展を支える。それによって、産業集積と教育投資の相乗効果が発揮され、地域の人的資本投資の効率性が継続的に向上するというモデルが成立する。こうした相乗効果は、人的資本投資による地域間の健全な競争を促し、全国での産業と教育の発展にもつながっていく。現在の日本では、教育研究資源でも三大都市圏に集中が見られる。今後必要な競争力のある教育研究拠点を育成していくという観点でも、地域において産業と連携したリスキリングを展開していくことが重要になる。

③就業者の生活基盤としての地域

人的資本投資を進めていく際に、実際にリスキリングを行うのは個人・就業者である。企業や社会が多くの支援を行うとしても、例えば生活の拠点を大きく変更するような労働移動などは個人にとって大きな負担となる。特に、就業者はライフイベント上も生活基盤の大きな変更は難しい。こうした個人への過度な負担を強いる形を一般化することは、リスキリングそのものに対する人々の抵抗感や消極姿勢を生み出しかねない。

コロナ禍でリモートワークが定着したしたことで、地域に縛られない働き方が増えてきていることは、注目に値する。しかし、職住分離が可能となる働き方を実現できるのは、依然として一部の産業・職種にとどまっている。柔軟な働き方の可能性を取り込みつつも、地域での生活基盤を重視することがリスキリングを進めるうえで重要な視点となろう。
このように、個社を超えた人材移動を促すうえでは、マクロな観点での人的資本経営を志向しつつも、具体的な取り組みの実施単位としては「地域」を想定することが有効だ。これらのメカニズムを念頭に、個社を超えた地域の単位で戦略を立案し、人的資本投資を行っていく「地域版人的資本経営」が、DX・GX時代のリスキリングに求められるものと考える。

本コラムに続く、中編、後編では、「地域版人的資本経営」の実現を考えるうえで参考となる諸外国の取り組み、「地域版人的資本経営」実現に向けたステークホルダーの役割や、そこに必要となる先導者についての考察を行う。

※1:人口動態を確認すると、生産年齢人口に対する2019年の就業者数は89.5%であり、実に生産年齢人口の9割が既に働いている状態。2000年の労働力人口対生産年齢人口は78.2%、就業者の対生産年齢人口は74.5%であった(総務省統計局「労働力調査」による)。

※2:人的資本経営の実践に関する先進事例の共有、企業間協力に向けた議論、効果的な情報開示の検討を行うことなどを目的に、伊藤邦夫一橋大学CFO教育研究センター長はじめ、国内企業経営者ら7人の発起人によって呼びかけがなされ、趣旨に賛同した320の企業・機関の参画をもって2022年8月25日に設立されたコンソーシアム。経済産業省および金融庁がオブザーバーとして参加し、コンソーシアムの事務局を三菱総合研究所が務める。

※3:成熟分野の事業の改廃、企業合併や事業承継などの企業の新陳代謝を通じた労働移動を含む。