2022年12月16日に日本政府が発表した「国家安全保障戦略」では、日本が「戦後最も厳しく複雑な安全保障環境」に直面しているとの認識が示されている。本コラムでは、この「戦後最も厳しく」という部分に着目して、戦後から日本を取り巻く安全保障環境を振り返りながら、その意味を明らかにしていきたい。
第二次世界大戦後の日本は、戦後処理と国家の再建が至上の命題となっていた。そのための国家方針は、「吉田ドクトリン」と呼ばれるものである。具体的には、日本の安全保障・国防は日米同盟を基軸として米国に担ってもらい、日本は軽武装のもと国内の経済復興・経済成長を優先するというものである。1950年代初頭、当時の吉田茂首相は警察予備隊の創設には合意する一方で、米国が提示する日本の再軍備の兵力目標案に否定的な態度を示して、再軍備よりも経済復興を優先する姿勢を示した※1。こうした方針は基本的に、冷戦期を通した日本の安全保障政策の中心となっていく※2。
日本が冷戦期にわたって「吉田ドクトリン」を採用し続けられた背景を対外環境から考えると、一つには米ソ両国の核抑止に基づく一種の均衡状態がある。特にソ連のキューバにおけるミサイル基地建造に端を発したキューバ危機(1962年)後、米ソ関係には抑止に基づく安定状態が生まれた。そして、1970年代には米ソの緊張緩和(デタント)が生じることになる。他方で中国についても、1970年代前半の米中接近の動きを契機として、日中の国交は1972年に正常化された。その後の日中関係は、「1972年体制」のもとで20年以上にわたる友好関係を維持することとなる※3。ジョン・ルイス・ギャディスが冷戦を「長い平和」と呼んだように、米ソが直接的に争う戦争は起こらなかった。他方で、朝鮮、ベトナム、アフガニスタンなどで発生した戦争が、日本にとって差し迫った安全保障上の危機となることはなかったといえる。
第二次世界大戦後の日本は、戦後処理と国家の再建が至上の命題となっていた。そのための国家方針は、「吉田ドクトリン」と呼ばれるものである。具体的には、日本の安全保障・国防は日米同盟を基軸として米国に担ってもらい、日本は軽武装のもと国内の経済復興・経済成長を優先するというものである。1950年代初頭、当時の吉田茂首相は警察予備隊の創設には合意する一方で、米国が提示する日本の再軍備の兵力目標案に否定的な態度を示して、再軍備よりも経済復興を優先する姿勢を示した※1。こうした方針は基本的に、冷戦期を通した日本の安全保障政策の中心となっていく※2。
日本が冷戦期にわたって「吉田ドクトリン」を採用し続けられた背景を対外環境から考えると、一つには米ソ両国の核抑止に基づく一種の均衡状態がある。特にソ連のキューバにおけるミサイル基地建造に端を発したキューバ危機(1962年)後、米ソ関係には抑止に基づく安定状態が生まれた。そして、1970年代には米ソの緊張緩和(デタント)が生じることになる。他方で中国についても、1970年代前半の米中接近の動きを契機として、日中の国交は1972年に正常化された。その後の日中関係は、「1972年体制」のもとで20年以上にわたる友好関係を維持することとなる※3。ジョン・ルイス・ギャディスが冷戦を「長い平和」と呼んだように、米ソが直接的に争う戦争は起こらなかった。他方で、朝鮮、ベトナム、アフガニスタンなどで発生した戦争が、日本にとって差し迫った安全保障上の危機となることはなかったといえる。